就学前教育の就学率95%の日本で、幼児教育の無償化は本当に必要?(Wezzy2017.06.21掲載)

前回、特に不利な環境にある母親に対する最初の1000日(子供が母親のお腹に宿ってから、2歳の誕生日を迎えるまでの約1000日間)の支援の重要性について指摘しました。

6月初旬の経済財政諮問会議で骨太の方針2017の素案が発表され、「幼児教育・保育の早期無償化や待機児童の解消に向け、(中略)、社会全体で人材投資を抜本強化するための改革の在り方についても早急に検討を進める」と明記されました。日本は子供を含めた家族への予算が小さい国なので、最初の1000日も含めた就学前教育の重要性が広く認識され、そのために予算が割かれるようになるのはとても良いことだと思います。

幼児教育が無償化されると家計の負担も減ります。おそらく読者の多くが幼児教育無償化に大賛成でしょう。しかし、幼児教育への予算は増やされるべきだとしても、無償化という方法が望ましいのかどうか、少し考えてみる必要はないでしょうか? これまで何度も書いてきたように、教育について経済アプローチの視点で考える場合、教育のコストに対してどれぐらいのリターンが見込まれるかが重視されます。もし幼児教育・保育が無償化されて各世帯のコストが減っても、そのコストは政府が代わりに負担することになり、結局誰が税金を支払っているかを考えると、無償化に対して十分なリターンが見込まれなければ、「安物買いの銭失い」になってしまいます。

そこで今回は、幼児教育の無償化が本当にいいことなのかについて、お話をしたいと思います。

幼児教育の効果は大きいけれども…

近年、幼児教育の効果の大きさが注目されるようになったのは、ノーベル経済学賞を受賞したJ.J.ヘックマン教授が、幼児教育の効果の大きさを推計した一連の学術論文を発表したことに由来します。

ヘックマン教授の業績は、Heckman Equationというサイトにまとめられていますし、『幼児教育の経済学』(東洋経済新報社)でも幼児教育の重要性が述べられています。幼児教育の収益率は13%にも及ぶと言われており近年の預金の金利の低さと比べるとその収益性の高さが一目瞭然ですが、なぜ幼児教育プログラムの効果が大きいかというと、学力向上による所得向上だけでなく、忍耐力・協調性といった、学力向上の土台・仕事の生産性向上のカギとなる「非認知能力」が上がることによって、所得・健康状況・犯罪への関与が大きく改善されるからです。

しかし、この議論には2点重要なことがあります。それは、ヘックマン教授が分析した幼児教育プログラムは、(1)主に貧困層を対象にしていて、(2)とても良質なものであったという点です。

前回の記事で栄養についてお話したので、ここでも栄養を例にしたいと思います。前回、貧困層で栄養不良を経験した子供は脳の発達に悪影響が出て、その影響が生涯続くとお話しました。良質な教育プログラムを通じてこうした子供たちの栄養状況を改善すれば、脳の発達に対する悪影響を抑える効果が見込まれます。しかし例えば、栄養不良状況でもない中間層や富裕層の子供に栄養を2倍与えたからといって脳の発達が2倍になるわけではありません。むしろ食べ過ぎでお腹を壊してしまうのがおちでしょう。また、栄養不良の子供に質の低い栄養価の悪いジャンクフードを大量に与えた所で、それは脳の発達にはあまり寄与せず、その子の肥満化を促進するだけになってしまうと考えられます。

ここでいう栄養は、教育のことです。つまり栄養価の高い食べ物は良質な教育のことであり、ジャンクフードは質の低い教育のことだと思ってください。ヘックマン教授が分析した貧困層を対象とした幼児教育プログラムが、中間層や富裕層を対象とした場合に必ずしも同様の効果がでるとは限りませんし、たとえ貧困層を対象としていても、教育内容が良質でなければ、やはり同様の結果は出ないでしょう。実際、Heckman Equationのサイトの中でも、質の低いデイケアや幼稚園/保育園へのアクセスを拡大させても同じような高い効果を発揮するわけではなく、やみくもなアクセスの拡大よりも教育内容の質を高めるような教育投資が為されるべきだということが記述されています。

幼児教育の質の高さは、カリキュラムや施設など様々な要因によって規定されます。そして、高度な知識と技能を持つ先生が、きちんと仕事が出来ているかどうかは重要な要因の一つです。では、日本の幼児教育の状況はそのようなものになっているのでしょうか?

日本の幼児教育の先生たちは力を発揮しやすいわけではない

先生が力を発揮しやすい環境にあるかどうかは、労働時間や同僚・保護者との関係など色々な要因で決まりますが、中でも特に教育の質を左右するものとして、教員一人当たりの生徒数を挙げることが出来ます。

一般的に教員一人当たり生徒数は、子供の年齢が下がるほどその重要性を増してきます。大教室で授業が実施される予備校の授業を受けるために年間100万円も支払うことに躊躇しない人でも、同じ規模の幼稚園・保育園があったら、たとえ値段がその半額だとしても、危なっかしくて子供を預ける気になれないでしょう。では、日本の幼児教育の先生たちが受け持つ子供の数は、他の先進諸国と比べてどのようになっているでしょうか?

上の図が示すように、日本の就学前教育の先生は一人当たり平均約26人の児童を受け持っています。この数字は、先進諸国の中で2番目に大きい値を示しているフランスよりも約30%も多く、先進諸国の中では群を抜いて高い値となっています。このような状況では、幼児教育の先生たちがその力を発揮することも難しく、ヘックマン教授が分析したように幼児教育が高い効果を発揮できるほど質が高い状況にあるとは言い難い所があります。

日本の幼児教育の先生たちの資質について

日本の待機児童問題が解消されない理由の一つに、幼児教育の先生の給与が低く離職率が高いため、なり手が集まらないという事情があります。日本の幼児教育の先生の給与は確かに一般的に低いのですが、他のいくつかの先進諸国では、幼児教育の先生の給与は小学校以降の先生の給与とほぼ同額に設定されています。脳の発達を始めとする幼児教育段階の子供の早期は非常に複雑なうえに日進月歩で新たな発見がなされており、その発見にキャッチアップしていき、それを日々の教育実践に反映させられるような資質を持つ幼児教育の先生と、小学校以降の先生に求められる資質に違いがある方がおかしいわけで、それであれば待遇も同等であるべきだからです。

しかし、上の図が示すように、日本では幼児教育の先生とそれ以降の教育段階の先生との間で準備教育の水準に大きな開きが見られます。そして、給与水準が低いのと鶏と卵のような関係ですが、平均勤務年数にも大きな隔たりが見られます。

幼児教育段階の子供の発達の複雑さなどを考えれば、幼児教育の先生とそれ以降の教育段階の先生とでこれだけ資質に差がある状況では、ヘックマン教授が分析したような高い効果を発揮できるほど幼児教育の質が高い状況にあるとは言えないのではないでしょうか。そうした中で幼児教育を無償化することで、コストに見合うリターンを得ることができるのでしょうか。

まとめ

私が住むアフリカ大陸でもこの20年ほどで小学校を中心とする教育の無償化が拡大し、教育が広く普及しました(私が仕事をしている世界最貧国の一つであるマラウイですら、95%以上の子供が小学校に通っています)。教育無償化の本来あるべき目的は、このような教育へのアクセスの拡大であり、就学前教育の就学率が95%もある日本でこれを導入する意味合いを見出すことは難しいと思います。

そして、アフリカ大陸では、広く教育が普及したにもかかわらず、貧困は依然として蔓延しています。これは、教育へのアクセスを重視しすぎて質への注意がおろそかとなり、小学校を卒業しても自分の名前すら書けない子供たちが数多く生み出されてきたからです。ヘックマン教授が指摘するように、幼児教育が高い効果を発揮するためには教育の質が高いことが非常に重要となってきます。

しかし、日本の幼児教育の先生の状況を見るだけでも、日本は幼児教育の質に課題を抱えていることが分かります。幼児教育を無償化しても、今まで家庭が負担していた教育費が政府負担に置き換わるだけで、むしろ政府の幼児教育に対する支出が増加する分、幼児教育の質向上のための資源が圧迫される可能性があります。

今年8月中旬から国際機関の仕事を辞して、アメリカで5年間の学生生活を始めます。私には今はまだ子供がいませんが、将来発生するであろう子育ての費用捻出のことを考えると、とても頭が痛くなってきます。しかし、子供の教育費を節約して安物買いの銭失いになってしまっては、子供に顔向けができません。幼児教育無償化がそれと全く同じことでないか、読者の皆さんもよくよく注意することが必要かもしれません。




サルタック・シクシャは、ネパールの不利な環境にある子供達にエビデンスに基づいた良質な教育を届けるために活動していて、現在は学校閉鎖中の子供達の学びを止めないよう支援を行っています。100円のサポートで1冊の本を子供達に届ける事ができます。どうぞよろしくお願いします。