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キャン・ユー・ブレス?

アイ・キャント・ブレス(息が出来ない)、という言葉を遺してジョージ・フロイドさんが警官達に殺されて、BLM運動が全米どころか海を越えて広がったきっかけの地にやってきました。

今年は比較国際教育学会(CIES)がミネアポリスで開催されるのを知った時に、ミネソタ・ツインズのマエケン投手が見たい!、よりも前に、ジョージ・フロイドさんが殺害された地(ジョージ・フロイド広場と現在では呼ばれています)を見に行こうかどうかの迷いの方が先に来ました、ほ、本当なんだからね!しかし、実はミネアポリスに到着してからもまだ迷っていました。なぜなら、BLM運動の拡大は私のキャリアに大きな影を落としたので、あまりよい感情を抱いていないからです。

BLM運動は、ある特定のアメリカ社会を大きく変えた一方で、結局変わらなければいけない部分のアメリカ社会を変える事は出来ませんでした。変わった社会の一つに、教育大学院が挙げられ、特に教育政策は今や自身が黒人・ヒスパニックであるか、人種問題を研究していないと、新規にアカポスにつく事はほぼ出来なくなっています。途上国の研究をしている日本人である私にこれが直撃したのですが、私が無職になろうがそれは大した話ではないので、また日を改めて。

とはいえ、そのような個人的事情からジョージ・フロイド広場に行く気にはなっていませんでした。しかし、ここ数か月の国際情勢と、CIESの国際比較教育の学術誌の編集長セッションを聞いて気が変わり、行ってみる事にしました。

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1. BLM運動の拡大でも変わらなかったアメリカ社会

BLM運動の拡大で起こった最も大きな社会変化は、顕著な形での白人中心主義の現れだと考えます。BLM運動に対抗するAll Lives Matter運動も然ることながら、現在ほぼ毎日主要な新聞で批判的人種理論(Critical Race Theory)の教育分野での異常なまでの燃え上がりを目にします。もちろんこれは、トランプ大統領の政策(&オバマ大統領自身の人種と貧困白人を切り捨てた政策の組み合わせ)という火種があって起こっている事ですが、これに反BLMがガソリンとして降り掛かった形となりました。

とは言えこれは、語弊を恐れずに言えば、大した事はありません。なぜなら、既に存在していた白人優越主義が表に出てきただけですし、確かに黒人を委縮させる効果はあるにせよ、顕著な形での白人中心主義を主に支える貧困白人層は、ジョージ・フロイドさんが殺害された構造的な問題には何ら関わってこないアクターに過ぎないからです。

深刻なのは、BLM運動が拡大したにも拘らず、起こらなかった社会変化の方です。

ジョージ・フロイドさんを殺した警察という組織は、これに始まったわけではなく数多の黒人殺しに関与しており、BLM運動の拡大は既存の警察の取り壊しへと流れを向かわせました。しかし、ものの一年の間にこの機運は完全に消滅するどころか(NYTの記事)、BLM運動拡大により成った黒人とアジア系の連帯も消滅し(NYTの記事)、警察の黒人殺しに大した変化もない(NYTの記事)、という有様です。

この警察による黒人殺しは変わらないというのは、自分で言うのもなんですが、去年私も予言していました(現代ビジネスの記事)。一外国人に過ぎない私がなぜこれを予言できたかというと、警官の黒人殺しを止めさせるために起こらなければならなかった社会変化の機運すら感じられなかったからです。

起こるべき社会変化とは、黒人が直面する「構造的差別」の解消です。警察に関して言えば、黒人が多く住む(治安の悪い)地域に数多くの優秀な警官を配備しなければなりませんでした。しかし、依然として警察予算の9割弱は地方政府から支出されていて、州・連邦政府からの支出は警察予算の1割程度に留まっているため、黒人が多く住む貧しい地域ほど警察予算が無く、警官の質・量ともに足りないという状況のままです。

さらに言えば、そもそも黒人が犯罪に走らないような構造的差別を解消するための手立ても打たれませんでした。これも現代ビジネスで論じたものですが(記事)、アメリカの教育予算は学区毎の固定資産税を基本としているために、黒人が多く住む貧しい地域ではまともな教育が行われていないどころか、各種の母子支援も機能しておらず、貧しい黒人は生まれた瞬間から既に逆風にさらされているわけです。日本でもヘックマンの幼児教育が重要だ!という研究が歪曲されて広がっていますが、あれは私が住むミシガン州内の貧しい地域で、幼児教育支援が無ければ2/3が刑務所にぶち込まれていたのが、幼児教育で情緒面などが改善されて刑務所にぶち込まれる割合が半減したというものです(それでも、その地域の子供の1/3は将来刑務所にぶち込まれるのですが・・・)。

端的にまとめてしまえば、BLM運動の拡大を受けて、裕福な白人達が、貧しい黒人の子供達を自分の子供達が学ぶ素晴らしい学校に受け入れてあげるとか、黒人が多く住む貧しく治安も悪く学校の質も低い地域のためにお金を出してあげるとか、そういった社会変化が起こらなければなりませんでした。しかし、裕福な白人達がした事は、顕在化した白人中心主義を非難してみせたり、貧しい学校や警察をよりシバキ上げてみせたり、裕福で教育水準の高い黒人を受け入れて「多様性(苦笑)」をアピールしてみせたりと、実に醜く酷いものでした。

より抽象的に言えば、黒人達を窒息させているシステムを決して変えることはなく、それを乗り越え中身が白くなった者だけを受け入れ、それをもって多様性が実現したと悦に浸っている、といった所でしょうか。

ジョージ・フロイドさんの死から2年が経とうとしていますが、多くの黒人は依然として息が出来ないままです。

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2. 国際比較教育学の超えられない壁

さて、くだらない個人的事情でジョージ・フロイド広場に行く気が無かったのですが、国際比較教育学会に参加して気持ちが変わりました。広場に行ってみようと思ったきっかけは、比較国際教育学5誌の編集長によるエディターセッションでした(International Journal of Education Development, Comparative Education Review, Compare: A Journal of Comparative and International Education, Comparative Education、とあと一誌名前忘れた)。

そのセッションは、各学術誌の編集長が、うちはどのようなジャーナルで、他の国際比較教育学のジャーナルとどう違うのか、若手向けのアドバイスなどを順番に話してくれた後に、フロアとのQ&Aセッションが行われました。

順番に発表が進み、最後に名前を失念してしまった学術誌の編集長が話してくれたのですが、その人だけが英語の問題について言及しました。曰く、国際比較教育学は、英語を母語としない研究者が多いし、研究対象が英語ではない事も多いため、英語がなっていないという理由で投稿をデスクリジェクトすることはないし、レビュワーからそのようなコメントが来ても、それを基に落とすことはしない。ただし、R&Rが第二ラウンドまで行って、依然として英語が不明瞭である場合に、助け舟を出すことはある(要するに、プルーフリードを受けることを勧める)、といったものでした。

その英語に関するコメントが、その編集長の発表のだいぶ後半に来たので、流石に物忘れの激しい私でも内容を覚えていたので、フロアに質問が開かれた時に真っ先に手を上げて、「まー日本人の酷い英語は有名だと思うけど、私が投稿する時には、どのタイミングで英語チェックを業者に出せばええんですかね?」と質問してみました。

当然ながら、これは国際比較教育学を考える上で非常に重いトピックで、植民地主義だのなんだの言いながら、「英語」がしっかりとしていないと受け付けないなんていうのはThe英語帝国主義なわけで、言ってる事とやってる事があべこべになるわけです。とは言え、じゃあ日本語の論文を載せるかと言われるとそういう訳にはいかないですし、文法のエラー満載の論文を載せるのもおかしな話ですし、などなど。ただ、個人的にポイントになり得るかなと思ったのが、英語のロジックが通っているか否かという点です。私は言語学者ではないので詳しくは分かりませんが、例えば英語は重要なポイントが最初に来るが、日本語は逆に最後に来ると聞いた事があります。この辺をどう扱うかが落し所になるのかなと質問しながら思っていました。

ただ、答えは想像を遥かに上回るガッカリさせられるものでした。

とある編集長が強調したのが、確かに英語の論文しか受け付けられないものの、うちのエディター陣は20数か国(どのジャーナルのどのエディターが言ったのかぼかすために具体的な数字は入れていません)から成っており、ある程度の懸念点には答えられている。ただ、英語としてロジックが通っているのは重要なので、自信が無ければプルーフリードを受けて欲しい、という事でした。

これ、何がガッカリするかと言うと、まずエディター陣が20数か国からなっていると強調された点です。では一体その中で、欧米以外で博士号を取得した人は何人いるでしょうか?少なくとも、日本人の日本の大学に勤務しているエディターはアメリカで博士号を取得した先生でした。帰宅してからパッと調べられた限りでは、ほぼ全員が英米(欧米ですらない)で博士号を取得した研究者でした。英米の博士課程という世間的に見れば極めて限られた人達の集まりなわけですから、これをもって英語以外の言語を考慮できていない点を補っている・多様性があるというのであれば、実におかしな話です。まあ、国連職員も多様性があると言っている割に、その実は大半が欧米で大学院を出ている極めて多様性に欠ける集団なので、きっと業界病なんだとは思いますが。

そしてやはり、一番残念なのは、英語のロジックに従う必要があるという主張に、唯一反対したのが件の英語について話してくれた名前を忘れてしまったジャーナルの編集長だけだったという点です(注:私が名前を憶えていないという事は、他の4つのジャーナルと比べてランク落ち、ないしは新興ジャーナルだということです)。後の国際比較教育学の主要なジャーナル4誌の編集者たちは、英語のロジックに従う必要があるのは、さも当然の事であるかのように述べていました。

そこまで聞いて気が付いたのですが、この編集長達は、全員、白人でした。

国際比較教育学は、他の学問分野以上にネオコロニアリズムだなんだのと、グローバルサウスを抑圧するシステムに敏感であるにも拘わらず、既存の白人英語帝国というシステムを決して変えることはなく、それを乗り越えて中身が白くなった者だけをアクセサリーのように使って多様性を謳っていて、結局のところ、アメリカで黒人達を窒息させているそれと程度の違いこそあれ全く同じ構図ではないかと、非常に残念な気持ちになりました。

この構図は、特に近年、新型コロナ禍でのアジア人学生に対する差別に何も手立てを打たなかった大学や、世界中にはアフガニスタン・エチオピア・イエメン・ナイジェリア・南スーダン・コンゴ民主共和国・モザンビーク・中央アフリカ・ニジェール・ミャンマー・シリア・ソマリアなどなど難民を流出させている紛争地が沢山ある中で白人のウクライナ難民だけに大きな注目を寄せるメディアや援助コミュニティ、にも見られるもので問題の根深さ・広範さに頭が痛くなります。

若かりし日の私であれば、編集長達に噛みついていたのでしょうが、二度の離婚や度重なる引越し、健康状況の悪化で既に心身ともに精魂尽き果てた今の私は、窒息しながら営業スマイル浮かべるのが精一杯で、最後までQ&Aセッションを聞いて、会場を後にしました。

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3. ジョージ・フロイド広場にて

落胆してホテルに戻り、ふとジョージ・フロイド広場はどのような所になっているのか気になりはじめました。

BLM運動の拡大は、基本的には大半が静かな抗議活動であったにも拘らず、一部の暴徒化した所がフォーカスを集め、BLM運動支持者以外にとっては実に酷いものであったという印象が強くなっている印象を受けます。ジョージ・フロイド広場も、そのような印象を裏付けるような暴力的な場所なのだろうか?それとも、大半がそうであったような静かな抗議活動を象徴するような場所なのだろうか?より踏み込めば、警察による黒人殺しという事象レベルに囚われず、黒人達を窒息させている、裕福な白人達が作り上げ変化を拒み続けているシステムに挑戦するような場所になっていたりするのだろうか?

翌日は学会最終日で、私は午前中に博士論文の発表があり、夕方の便でシカゴへ行き翌日野球(筒香さんvs鈴木誠也選手ー21対0という超絶バカ試合を目撃する事になるとは、この時は露知らず)を見に行く予定だったので、急いで広場に行く時間があるかチェックしました。幸いな事に、学会会場からも滞在先からもウーバーで10分程度で行けることが分かり、発表を終えたらサッと向かって、サッとホテルへ戻り、空港へ向かう事にしました。

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ジョージ・フロイド広場は、ミネアポリスのダウンタウンと空港のちょうど中間ぐらいに位置する住宅街で、その中の少しだけお店が立ち並ぶ通りが交わる交差点でした。上の写真が、テレビで何度も見た、警官がジョージ・フロイドさんの首を膝で押さえつけ、殺害した場所です。警官が駆け付けた理由が偽札使用&薬物中毒だったので、ダウンタウン中心の荒れた場所だったのかなと思いきや、本当に住宅街のど真ん中だったので、少し意外でした。

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広場からは全く暴力的な印象は受けず、少数の暴走と報道の在り方の地獄のような組み合わせを実感させられた気がしました。ただ、多くの黒人達を窒息させている豊かな白人達が作り上げたシステムに挑戦する、という感じは一切受けませんでした。ただ穏やかに黒人の命も白人と同様にリスペクトしてくれと訴えている事が伝わってきました。

広場で若い白人女性にCIES参加者ですか?と声をかけられました。聞けば南スーダンの教育を研究しているそうで、よくぞまあそんな人が学会最終日にわざわざ会場を抜け出して足を運んだものだなと驚きました。そういえば、同じく学会に参加していたうちのNGOの理事も、一足先にこの広場を訪れ、「畠山さんも行ってくるといいですよー」なんて言っていました。

私は既に諦めの境地に入りつつありますが、こういうたおやかな若い世代や静かな祈りが、米国内の黒人や世界中のマイノリティを窒息させているシステムを克服していってくれることを願っています。

キャン・ユー・ブレス?

サルタック・シクシャは、ネパールの不利な環境にある子供達にエビデンスに基づいた良質な教育を届けるために活動していて、現在は学校閉鎖中の子供達の学びを止めないよう支援を行っています。100円のサポートで1冊の本を子供達に届ける事ができます。どうぞよろしくお願いします。