教育学部の人事の在り方が教育をダメにした話ーアメリカの大学でテニュアを取るための条件がもたらす歪み

現代ビジネスさんで「高学力だけでは不十分な時代に求められる「教育とスキル」は何か」という記事を執筆しました。記事の内容が盛沢山過ぎたのでいくつか削ったネタがあるのですが、今日はそのうちの一つである「教育学部の人事の在り方が教育をダメにした話」をここに書いておこうと思います。

記事の内容の詳細は上のリンク先を読んで頂くとして、最後にポイントとなったのが、現代の教育政策を考える上で、学力や非認知スキルへのインパクトだけを持って「エビデンス」と称するのは危険で、ソーシャルスキルをはじめとする、見えていない指標への影響を顧みないことには「エビデンス」と称するのは危険である、という点です。

ここで言及したかったのが、そもそもなぜ教育政策や教育経済学の分野で、学力や非認知スキルにだけ着目して「エビデンス」と叫ぶことが横行してしまったのかという点です。教育には、社会統合や、今回の記事で取り上げたソーシャルスキルの育成など様々な目的がありますが、教育経済学者がバカなのでそれに気が付かなかったのでしょうか?

恐らくこれは違うと思います。教育経済学の強い大学にコロンビア大学が挙げられますが(余談になりますが、日本人で国際教育協力分野で教育経済学に特化している人の大半がここの卒業生です)、ここの大学院の教育経済学の授業では、最初に詩を読ませて、こういった事が理解できるようになる心の豊かさを育めるのも、教育の重要な役割だと教えるようです。また、私がいるミシガン州立大学も教育経済学ではかなり強い所ですが、うちはコースワークで教育を通じた社会統合というのを強烈なほどに強調してきます。

では、なぜ教育経済学者は学力のような狭義の教育の成果にだけフォーカスして「エビデンス」を叫んでしまったのでしょうか?

恐らくその答えは、教育政策分野でアカデミックポストを取るためのプロセスにあると思います。教育学部で大学の先生になると具体的にどういった事が大変なのかは、以前「教育学部で大学教授になるのは、かなりだるそうな理由」という日記の中で触れたのでぜひそちらもご覧になってみてください。その記事の中で、テニュアトラックが引き起こす問題点についても言及していますが、これがこの現象にも関係してきます。

テニュアトラックというのは、終身在職権をかけて5−7年間の審査期間を経る課程の事を指します。テニュアトラックの先生達はこの間に、沢山ペーパーを書いて、少しでもランクの高いジャーナルに掲載することが求められます(他にも授業評価など色々求められますが)。

前回の日記でも、教育の政治学の先生が、教育には科学と実践のジレンマが存在していて、論文として仕上がるかどうか分からない実践の方にテニュアトラック中に寄っていくと自爆してしまい、実践に寄った研究が出来るのはテニュアを取った有名なフルプロフェッサーぐらいだと言っていたことに言及しましたが、全く同じことが学力へのフォーカスにも言えます。

多岐に渡る教育の成果の中で、最も既存のデータセットが充実しているのは学力です。OECDがやっているような国際学力調査もあれば、米国でもThe National Assessment of Educational Progress (NAEP)がありますし、マラウイやネパールのような最貧国ですらテストは実施しています。これらの学力に関するデータセットに比べると、他の教育成果に関するデータセットというのは本当に希薄です。

もちろん、学力以外の教育成果への教育政策の影響を見るために、自らデータを取りに行くこともできます。ただし、これを実施するためには大規模な予算を取ってこないといけないのでその準備や、データ収集の手間などを考えると、論文を量産しなければならないテニュアトラック中にこれに乗り出すとほぼ確実に自爆します。これに対して、既存のデータセットを利用して論文を書けば、安上がりなのでプロポーザルライティングに莫大な時間を取られることもないですし、データ収集&クリーニングの時間も大幅に削減することが出来ます。

そもそも、学力の経済学は分析が進んでいるので、ある程度論文になるのかならないのか予測がついた下で分析を進めることが出来ますが、学力以外の教育成果となると、まだそれほど研究が進んでいないので、自らデータを取ってきたところで、それが論文に出来るのかどうか、結構不確実な所があります。

このように、学力以外の教育成果に着目すると、お金も時間もかかるし、論文になるのかどうかの大きな不安もつきまといます。このようなリスクをテニュアトラック中に背負うのは土台無理な話です。

実際に、私の指導教官はテニュアトラックが終わりたての人ですが、やはりテニュアトラック中は既存の学力に関するデータセットを使ってペーパーを書きまくったそうです(子供を出産するのもテニュアトラックが終わるのを待ったというのは正直ビビりましたが)。それで、テニュアトラックも終わったので、既存のデータセットに頼ることなく、自分でデータをとって研究を進めようとしていたので、私はこの先生を頼ってミシガン州立大学に収監…じゃなくて進学したという側面もあります。

このような感じで、教育政策分野の若手・中堅の研究は学力に焦点を当てたものばかりになってしまったのが米国のアカデミアの現状です。そして、これらの研究が政策アドボカシーに使われたため、教育の目的が学力に矮小化されたのがここ30年ほどの米国の現状です。なぜここ30年なのかというと、もちろん、A Nation at Risk以降の政治的な流れが圧倒的に大きいのですが、データ整備や統計ソフトの活用が一気に向上したのが丁度1980年代ごろからで、教育経済学の力が増していった時期というのも見逃せないでしょう。

要は、米国のテニュアトラックを巡る研究の在り方が、教育の目的を学力に矮小化させ、教育をダメにした、という側面があるわけです。ちなみに、似たような話はお隣の経済学部の方でもあるようで、クルーグマンとかが嘆いているそうですが、ググればそんな感じのポットキャストが見つかると思うので、興味がある人は探してみてください。


ここまで書くと、じゃあお前はPhDを取った後にアカデミアに向かうならそういった研究とは違う研究をするんだろうなと突っ込まれそうですが、そんなのが出来るぐらい才能にあふれていたら、33歳にもなってこんなミシガンの片田舎でくすぶってはいないでしょう苦笑。

とは言え、先日のNGOのブログで「障害児をクラスメイトに持つと学びが阻害されるのか?−障害児教育の教育経済学」という記事を執筆しましたが、博士論文では障害児に焦点を当てることで、教育と社会統合の教育経済学的な分析がネパールでできると良いなとは考えています、一寸の虫にも五分の魂的に。現地ではうちのNGOの職員とボランティアを動員してデータ収集をする予定なので、よっしゃ頑張れ応援するぞ!という方がいらっしゃいましたら、ご支援頂ければ幸いです→寄付をする会員になる

サルタック・シクシャは、ネパールの不利な環境にある子供達にエビデンスに基づいた良質な教育を届けるために活動していて、現在は学校閉鎖中の子供達の学びを止めないよう支援を行っています。100円のサポートで1冊の本を子供達に届ける事ができます。どうぞよろしくお願いします。