1518

わたしは15歳(中3)と18歳(高3)、もっと言えば12歳もだが
それらの年齢の時に進路選択をさせるのは
めちゃくちゃムリがあるのではと思ってしまう


べつに教育制度や法律等に物申したいわけではない

しかし、自分という人間を見極めたり知ったり考えたりするのに15年、18年という時間は短すぎるのではないか、と思うのだ


10年前、わたしが中3の頃なんてもう
本当に人としてペラッペラだった
考えることやること全てが薄っぺらく根拠に乏しく
ただただ感情で舵を取り学校で無料配布されている可能性なんて飴ちゃんをずっと口の中で転がして
毎日を過ごし色んな選択を行なっていた

そのくせ、何も埋まっていないところを
疑って掘り返して日が暮れて
勝手に悩んで落ち込んで

でもなんかそんな毎日に
浸っている時間がどこか
銭湯のぬる湯のようで居心地は悪くはなかった気もする

そんなもんだから
15歳の自分には18歳の自分には
自分に何ができて何ができなくて
何がやりたくて何がやりたくなくて
何が好きで何が嫌いかなんてわかりっこなかった

大概の事象に対して
好き嫌いの前に"知らない" "わからない"が
溢れかえってた
 

そこから少しずつ色んな価値観や世界にでくわして
触れて感じて味わって
おもしろいを知ってしょうもないを知って
くだらないを知って大切を知っていった
いちいち逐一何に対してかもわかんないイライラを抱えながらまたもやそんな自分に浸りながら


わたしは授業じゃ自分を測れなかった
全部何となくでやり過ごせるものばかりだった
毎年教室を替え机や椅子は年を取るにつれ大きくなってってやらなきゃいけないことは日に日に増えてってそれに伴ってやりたいことは膨らんでって
今思えば今の何倍も時間も心も空き容量はなかったように思える
もちろんギガ数も小さいのはあったとは思う

忘れられないような嫌な思い出とかに限って
容量をくうんだっけな
担任の先生とのエピソードや友達との放課後の出来事なんか覚えちゃいない
覚えているのはそんな嫌な思い出と
好きだった子の名前と笑顔くらいのもんだ


そんなもので頭と心の容量はいっぱいだから
将来のこと、将来と対比した自分、
を考える余裕なんてものは
ほとんどないに等しかった
未来のことに対してあるのはせいぜい
"憧れ"くらいのものだ

でも憧れを地図に歩くには
余計な情報や野次はわんさか入ってくる
だからそんな地図は2秒で破いて捨てた


なんてことをぼーっと
考えてたら販売機の下に小銭を落としてしまった









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