明大の「マンガ文化の保存拠点計画」を聞きながら考えていたこと(1)

平成29年11月23日に、明治大学と文化庁の主催で開催されたシンポジウム「マンガ文化の保存拠点計画」に参加していたときに思っていたことを、記録に残しておこうと思う。

今年はデジタルアーカイブ学会の設立や、超党派の議員連盟によるMANGAナショナル・センター構想の議員立法に向けた動きなど、いくつか目立った動きがあったが、アニメ、漫画、ゲームと各領域の実務担当者を招いて、オープンで議論する場というのは、メディア芸術連携促進事業の報告会などを除けば、あまりなかったように思う(よりクローズドな場での対話は、もちろんある)。一般向けということで、あまり深く突っ込んだ話はなかったけれども、改めて気づきはあった。

最近このように、図書館学やアーカイブ系の領域に顔を出していることが多い。IA(インフォメーション・アーキテクト)にとって建築学がIAの父だとすれば、図書館情報学やアーカイブ学はその母である。しかし、デジタル化によって情報を取り扱うための技術はWebの発展とともに大きく変わってしまい、IAは司書とも建築家とも離れた場所にいる。IAです、と自己紹介をしたとして、あぁ、IAですか、と返してくれる図書館関係者は残念ながら、ほとんどいない。アーキビストやライブラリアンの「情報学」と、IAが取り扱う「情報学」は、領域が重なるようで重ならないように見えることに気づいてから、何が重なっていて、何が重なっていないのか知りたくて、頻繁にこれらの領域の学会や研究会に足を運んでいる。

図書館情報学には、人間がどのように情報を探索し利用しているのかを探る情報行動研究の領域があり、特に近年はユーザーの非組織的な日常の情報行動やコンテキストによる情報実践の違いなどに焦点を当てる研究が盛んになっている。気になるのは、IAが取り扱うのもそうした領域で、そして既に図書館情報学以外の領域で、似たような研究と実践はかなり控えめに言っても相当数蓄積されていることにある。

人の活動の大半は、日常で身の回りにあふれるメディアや、道具を介して非組織化された行動によって行われるし、文脈によっては同じ機能が違う用途で使われる。使いやすい道具やシステムを作るためには、ユーザーとシステムや道具とのインタラクションのみならず、ユーザーのコンテクストにも配慮して適切な設計を行う必要がある。

IAは、そんなユーザーの整理されていない非組織的な日常の情報行動を観察して、その社会的・個人的文脈を把握し、ユーザーが快適に情報行動を行うための手段を(近年では「もの」を媒介した「体験」として、あるいは社会情報の生態系の中で)設計することをその使命としているが、その外形だけをなぞれば既に、HCI、人間工学、ユーザビリティ、認知心理学、社会心理学、あるいは「有形価値」だけではなく「無形価値」に着目するサービスデザインの領域で、盛んに知見が蓄積されてきた。では、近年の図書館情報学における知見は、それらの知見とどのようにリンクするのか。あるいはしないのか。

こと近年、電子書籍の普及やデジタル化が進展するに従って、ユーザーの情報利用形態は多様化し、非組織性の高い行動が顕在化している。そのような、これまでIAが先行して知見を蓄積してきた課題や問題に、MLA分野の人々が頭を悩ませている事例をよく見かける立ち位置にたまたまいたことが、最近この界隈に足を運んでいるもうひとつの理由である。

特に、今回テーマとなったような、コンテンツ産業分野の恒久的なアーカイブ施設では、これまでのアーカイブがそうであったように、展示などの情報提供なしに、利用者自ら積極的に利用行動を取ることは想定しにくい。

漫画専門図書館を中心としたMLA(ミュージアム、ライブラリー、アーカイブ)や、現場担当者の経験知に基いて語られるアーカイブの専門的な価値やニーズは、もちろんある。それだけで「なぜこの施設が必要なのか」という問いに十分答えられるのであれば問題はないけれど、残念ながら本当は、もっと重いものを突きつけられているはずだ。

近現代に成立したMLAの思想は基本的に「もの」に紐付いている。人間の活動によって生み出された成果物を後追いで収集・整理・保存し、意味を定めて「提供する」ことに多くのエネルギーが割かれる「もの中心の考え方」で、前述のニーズも、多くは「もの」をめぐることが多い。

だが近年、そのような「もの中心の考え方」には限界があることも分かってきた。衣食住などの最低限生きながらえなければならないような状況下は例外として、人は「もの」を「そのもの」の価値によってのみ利用するわけではない。たとえば漫画を買うのは、漫画を読む体験を通じて得られる経験が楽しいからであって、興味がない漫画を「ものの価値があるから」と買う消費者はあまりいない。本質的なのは楽しいという無形価値のほうだ。そして、それらは事業者によって「提供」されるものではなく、顧客が「ものやサービスを消費する過程で体験的・経験的に事業者との関わりの中で共創していくもの」である。サービスデザインはそうした視点を提供している。

前者の「もの中心」の発想はG-Dロジック(Goods Dominant Logic)、後者はS-Dロジック(Service Dominant Logic)と呼び区別される。S-Dロジックでは、顧客の多様な利用文脈に近づくことで、それまでの主だった顧客と相互に強い関与を持って定着率を向上させ、長いライフタイムを実現させようとするのと同時に、それまで価値を提供できていなかった顧客にも裾野を広げられる可能性を持つ。

分かりやすく例示すると、S-Dロジックを実践知に基いて実践しているのが日本のコンテンツ産業である。日本でコンテンツ産業が強い強度を保っていられるのは、多くの「共創してくれるユーザー」がいて、コミケなどの「共創する場」があり、活発にコミュニケーションを交わす中で、次の本質的な価値を生成していることにある。

「共創」をそのままコンテンツの創造行為と結びつけて考えると思考の幅が狭くなるので、念のため他の事例を挙げてみよう。よく引き合いに出すのは、東日本大震災のときの計画停電だ。機能的に必要なものはなんだろう?その通り、「どこがいつ停電するのか」を提供するためのシステムとUIが必要になる。住所を検索して絞りこめる?それとも地図から検索できることが好ましいだろうか?

これが(単純化してはいるけれど)G-Dロジックの考え方だ。組織化された情報を、ユーザーの積極的な(かつ組織化可能な)情報探索行動を想定して設計している。

ではS-Dロジック、つまり「ユーザーの社会的文脈に沿った共創的なアプローチ」を計画停電の事例に当てはめると、なにが考えられるだろう。

計画停電で困るのはなぜだろうか?とまずは考えてみよう。パソコンで作業をしているから。病院で人工呼吸器を止めてはいけないから。

そうした利用文脈を織り込んで考えると、提供するべき機能の様相はガラリと変わってしまうことに気づきはしないだろうか。そして、どちらがより多く使ってもらえるだろうか。

「蓋を開けてみたら誰も使ってくれませんでした」となるのを防ぎ、「使われる」のに必要なのは、明らかに後者のほうだ。

 アーカイブを検索する手段や提供方法の最適化にも、もちろん意味はある。だが公金を投入する理由を厳しく追求されるこの種の事業で、後者に踏み込まないことの危険性は、関係者であればあるほど強く認識していることと思う。そして何より大切なのは、後者の方がやっていて楽しいことだ。

だから、Production I.Gのアーカイブグループの山川さんや、赤松健先生が辿り着いた事例が持つ価値を、もっと真剣に受け止めなければと個人的には思っている。

たぶん、続く。

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