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西條酒造

西條酒造の創醸は享保三年(西暦1718年) 以来今日まで河内長野の地で酒造業を営んでいます。
現蔵主は第十代「西條陽三氏」。
当時は酒造りのほか、油業や銀行業も営んでいた。

※享保時代とは江戸幕府第8代将軍徳川吉宗(在職:1716年 - 1745年)の時代。

西條酒造は高野街道に面した場所にある酒蔵です。
高野街道は空海が高野山に開いた真言密教の根本道場を参詣する道で、京・大阪方面から出発する場合、河内長野までは4本のルートがあります。
河内長野はこの高野街道が合流する場所という事から宿場町として栄えていました。

1 東高野街道・・・京都の岩清水八幡宮を起点に、河内国を縦断し、河内長野に至る。前身は平安京または長岡京への官道だったと推定される。京から高野山への参詣路として使用されるとともに、河内国を南北に貫く数少ない街道でもあった。

2 西高野街道・・・堺から南東に延び、河内長野で東高野街道に合流する。江戸時代に最も賑わった街道で、旅人の便宜のため一里毎に、道標石が堺から高野山女人堂まで13基立てられ、現在も残っている。

3 中高野街道・・・大阪、平野からほぼ一直線に南下し、松原、狭山を経て西高野街道と合流する。起点は杭全神社西の泥堂口にあった一里塚とされる。1148年に仁和寺宮覚法法親王が高野山参詣の際に通ったと考えられている。

4 下高野街道・・・大阪市内からの高野参りへの街道で、四天王寺を出て岩室村(大阪狭山市)で西高野街道に合流した。旧街道筋の大和川に下高野橋が架かっている。

酒造りに適した高品質米を用いて高度自家精白し、 朴訥な南部杜氏が手間暇を惜しまず醸し上げる一滴一滴は、 芳り高く醇らか。 とりわけ『純米造り』に秀でた蔵元として 酒通の皆様から高い評価を頂いております。

創醸期より明治末期までは「三木正宗(さんきまさむね)」 大正・昭和を通しては「波之鶴(なみのつる)」の銘柄で親しんで頂きましたが、 昭和46年、天野山金剛寺のご好意、 地元の皆様の声援を頂き古格「天野酒」を復活。
今日では知る人ぞ知る地酒の一つに数えて頂けるまでになりました。







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