ワイセツや、ぼろ儲けの罠や

ここにこんなテーマについてばかりを書きたいわけじゃなくて、本当はもっと音楽の話とか俳句の話とかをしたいんですけれども。。


性器の3Dデータ頒布の疑い 自称芸術家の女を逮捕
http://www.asahi.com/articles/ASG7G3JMLG7GUTIL00X.html

この作家さんの作品はネット上で何個か見たことがあって、「はははは、アホだ!」という感想を持っていました。


法の均衡性とか予見可能性とかの観点からは、「AV女優の女性器をかたどった自慰器具」が取り締まられていないのに、本件で逮捕されるのは、ダメです。
(※予見可能性っていう言葉の使い方がちょっとおかしいですけど、許してください。やる前に「コレやったらアウトだろうな」って想像できるか、の意で使っています。)

ただ、これっておそらく、「アダルトグッズ売場じゃないところ」でやったから「公衆への頒布」だ、という理屈なんだと思います。
それは、運用上、一理あるかもよ?、とも思うわけです。


まず、チャタレイ夫人にせよ、非実在2次元児童ポルノにせよ、あるいはテンメイ、アラーキーにせよ、この手の論争では常に「芸術性の有無」や「性欲を喚起するかどうか」が問題とされるわけですが、そもそもそれって、どう考えても司法で線を引けることではないですよね。
「なにか創作をして、結果、その芸術性が高いと認められればOK、凡庸なものだったらアウト」というのは、法律論としてあり得ないはずです。
高橋源一郎氏の言う通り、表現活動において1つの宝石が生まれる可能性は、数多のゴミみたいな作品を生み出していい自由によってのみ、保証されているわけです。

もし「表現の自由」というものがあるとするなら、それは「クズである自由」なのだ。(高橋源一郎, 『文学じゃないかもしれない症候群』, 1995, 朝日新聞社)
https://twitter.com/tarareba722/status/474729281851912192
(※孫引きすいません。)

ですから、おおざっぱに言えば、他人を傷つけたりしない(ほぼ)全ての「表現」は許されるべき、というところまでは、まあ、その通りだと思います。

が。
それだけだと、作者が「芸術のつもりでした」と言い張れば、何をやってもよい、ということになってしまいます。
わいせつ規制の保護法益は何か(=誰の何の被害を守ろうとしてるの?)、というのは、難しい問題なのですが、仮にそれが「青少年保護」や「見たくない側の自由」であるとして、やっぱり「芸術だから何やったって許せ」というのは、「オトナが社会で行きていく上では」通りにくい話であると思います(「芸術だから何やったっていいだろ」という人のスタンスを否定するものではありませんが、それを「法律でも全部許せ」というのは要求が過剰だろう、ということです)。

では、どうやって現実的に規制をするのかというと、やっぱりゾーニングしか無いと思うんですよね。
・ちゃんと18禁にして、「性的な表現が含まれます」と明示して、「同意」ボタンを押したり暖簾をくぐらないと、目に触れ得ない、という状態を徹底する。それをしているものについては、まあ、許してあげる。
・街で、あるいはネットで、いきなり出くわし得るものは、アウト。
・「作者の意図」、「芸術性の有無」、「性欲を刺激するか否か」は問わず、モノとして、アレやアレやあんなことやこんなことが出るものは、全てこのフィルターを介す。
これが、一番文句の出ない方法だと思うわけです。

…そもそも法律がそうなってないから、ややこしいんですけどね。
でも、もし法律の方を変えずに「運用」でこれをやるなら(おそらく今回の警察の意図はそうだと思うんですけど)、「アダルトグッズ売場にある、AV女優の女性器をかたどった自慰器具」を取り締まらず、今回のコレを取り締まるのは、「合理的」と言ってもいい、と、僕は思います。
(もちろん、「3Dプリンタ」という、彼らにとって得体の知れない新しいメディアに対して、過剰反応があったとも思いますけれども。)


…実は、ここまでは長い前提で、本当に思うこととしては以下なんですが、


今回の件を「芸術か、猥褻か!」みたいな議論の具にするのは、正直うすら寒い、と思ってしまいます。。

性器をかたどった表現なんて、もう、手垢がついてるじゃないですか。。
(そりゃ、そこに箱庭っつーかジオラマっつーかを作った人は初めてかもしれませんけど。広い意味では。)

この件やレスリー・キー騒動を受けて「猥褻じゃなくて芸術だーブヒー!」と鼻息を荒くしている人を見ると、「ああ、あんまり美術館とか行ったことないんだな…」と思ってしまいます。

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