のらりくらり -flex lifeと集団的自衛権-

先日、何年かぶりにflex lifeのライブを見る機会があった。
何年ぶりか思い出せないけれど、少なくとも3年以上経っていることは確かだ。
なぜなら、2011年3月以降、触れることを避けていたから。

flex lifeばかり聴いていた時期があった。
録音物の完成度もさることながら、二人だけでの生演奏は、特別だった。
里枝さんは、人前に立って場を牽引することに長けた人で、会場の大小を問わず、いつだってそこにアットホームな一体感を生み出していた。
大倉さんは、決して技巧的ではなく、主張が強いわけではないのに、キラキラとした説得力のある演奏をする人で、憧れのプレイヤーのひとりだった。
洗練と泥臭さのバランスと両立、素朴さ・素直さとショウマンシップの両立、リアルタイムのコミュニケーションで出来てゆく音楽。
僕がライブをする際に目指す、ひとつの理想型だった。
個人的な交流では、二人の柔和だけどシビアなキャラクターも、良い先輩であることを印象づけた。

例の件以降、大倉さんのSNSでのポストが、僕にとってつらいものになった。
およそ科学的・実証的とは思えない「報道されない真実」や、山本太郎や三宅洋平(※1)が、パソコンの画面を踊った。
作品とその他の言動は別だとしても、確かにあの時、多くのミュージシャンが輝きを無くしたように見えた。
“平時”にはトガって見えたキヨシローの反核歌も、絵空事に聴こえた。
僕は、大好きなflex lifeが、嫌なものになるのが怖かった。だから、聴けなかった。
しばらくして二人は熊本に引っ越し、東京でのライブは、避けるまでもなく見ることができなくなった。

あの時、誰もが恐怖を感じ、普通の神経ではいられなくなった。僕もそうだ。
それまで考えなかったいろいろなことを考えたし、調べもした。
その中で、様々な言説、科学・非科学にも触れ、しだいに立脚点を取り戻していった。
小さなお子さんのいる二人が、殊更に過敏になったとしても不思議ではないし、最大の大事を取って東京を離れたことに何の異を唱えるつもりもない。
でも。

「のらりくらり」って、言ってたじゃんか。
今こそ、「のらりくらり」が必要じゃんか、バカ。

そう思った。



3年を経て聴いたflex lifeは、僕が大好きだったflex lifeと、何も変わっていなかった。
相変わらずうきうきさせてくれて、良い場・良い気分を提供してくれた。
直情的な反核・反戦メッセージを曲に乗せたり、していなかった。
ようやく僕も、音楽は音楽として聴けるように戻ったし、あるいは向こうも、音楽を音楽としてできるように戻ったのだな、と思った。



と思った矢先の、この集団的自衛権騒ぎだ。
近しい友人を含めた多くの“ミュージシャン”が、SNSに義憤をアウトプットし、デモに参加している。

非戦の志向も、デモも、もちろん悪いことではない。
僕自身も解釈改憲にはもちろん反対だ(いくらそれが史上何度めかの事であるにせよ)。
戦力の放棄を謳った9条は、世界じゅうを軍縮方向に向ける旗印になり得るかもしれない、良い象徴だと思っている。
もっと言ってしまえば、僕は、いっそ個別的自衛権も放棄(※有しているが行使を放棄)しちまえよ、という極端な考えの持ち主で、消極的平和主義原理主義者だ。

けど、こんなことを言った時点で、“真っ当で現実的な大人の議論”に参加する権利を有さなくなることを、僕は知っている。
政治は、現実の調整だ。現実の調整には、したたかさ、シビアさ、泥をかぶる覚悟がいる。
まして国際関係に於いては、その調整の対象となるのは、あまりにも多様な価値判断や複雑な利害で、「戦争よくない!」という簡単な一言では片付かない。
こう言うと、日頃ノンポリだけどここでは声を上げなきゃ、と思っている多くの人が、「え、なんで? だって戦争は良くないじゃん」と言うかもしれない。
そう言うならば、まさにそのことこそが、この抗議行動の危うさ・弱さだと思う。

残念ながら世界は、みんな軍備とかやめようよーそしたら平和だよー、というふうには出来ていない。
“平和”とは何か。
例えば、世界のどこかで圧政や侵略に虐げられ、殺されてゆく人たちを、そのまま放っておいてよいのか。
これから先、そうやって命を落とす人を減らすための“抑止”には、どんな方法があり得るのか。
“平和”のための警察力(例えば国連軍といった)は必要ではないのか。
そこに日本は本当に加担しなくていいのか(※2)。
あるいは、日米安保の傘がなくなったらどうなるのか(※3)。
これらのトピックと、今回のこのケースは、どういう位置関係にあるのか(※4)。

いま官邸前のデモに参加している人たちは、あるいはSNSで義憤を発散させている人たちは、こういう難問について、どれだけ考えたことがあるだろうか。
「そんなの超考えた上でに決まってんだろバカ」と言ってほしい。
でも、残念ながら、僕の目に入る彼らの多くは、何も考えていないどころか、問題の所在すら知らないように見える。
はっきりいってしまえば、耳障りのよい非戦のフレーズを叫んで、気持ちよくなっているように見える。

3年前と同じように、大好きなミュージシャンが何人も、そこに参加している。
音楽は別だ、人格も別だ、と思いたい。
けど、3年前と同じように、やっぱりちょっと、つらい。
個人の正義は諸刃だと知らない人の正義は、つらい。

僕が本当に日本や世界の未来のことを考え、そのためにアクションを起こすのであれば、少なくとも官邸前のデモに参加するよりは、彼らの一人々々を説得し、投票に行ってもらい、票を少しでもマシなところに集約させていくこそが、僕のやらなくてはいけないことだ(ちょっと選民意識的になってしまうけど、だって、さ……)。
でも、それはとてもとても、エネルギーのいることだ。


どうか、また、大好きなミュージシャンの音楽を「聴けない」と思うようになりませんように。
みんなと、「のらりくらり」と酒を飲み続けられますように。



(※1:洋平さんはとてもかっこいいミュージシャンで、優秀なアジテーターで、一生懸命物事を見よう、対処しようとしている人だと思うけれど、政治=したたかな現実の調整に適してはいないと思っています。)

(※2:僕個人は、9条のおかげで、加担しない=自分は手を汚さないズルが許されている状態が(ズルいけど)幸いだ、と思っていますが。)

(※3:僕個人は、北朝鮮は実際には攻めて来ないと思っていますが。)

(※4:集団的自衛権じたいの是非ではなく、専守防衛の原則を崩すことを「法解釈によって行う」ことが、今回の一番の問題だと思っています。)

※三宅洋平氏の漢字を間違えていたので、訂正しました。(7/4 20:42)

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