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和紙漉き 3 和紙の歴史と印刷の発明

和紙研究第一人者、久米康生氏の和紙の文化史を中心に、歴史学事典(弘文堂)、紙の歴史 ピエール=マルク・ドゥ・ビアシ著 創元社を参考に以下まとめる。

蔡倫(さいりんTs'ai Lun)

後漢の元興元年105年に蔡倫(さいりんTs'ai Lun)という帝室技芸監の地位であった人物が初めて製作したとされる。
彼は大麻を主として楮、葛、山藤などの樹皮繊維、苧麻(ちょま)などの草皮繊維、さらにこれらの繊維を利用した布や漁網などを臼で突き砕いて、水に溶かして、簀ですくいあげて、静かに水を落として、溜漉き法で紙を作った。

最古の紙


*最古の紙は、紀元前179~142年の頃、中国甘粛省天水市放馬灘(ほうばたん)の前漢の墓から出土した放馬灘紙で地図が描かれていた。密度が低く包み紙として使われた。その後、高価な絹布、重い木簡、竹簡に代わって、安くて軽い書写材料を探していたのだろう。書写用紙として最も古い紙は、同じ場所の遺跡から出土した懸泉紙で、紀元前74~49年頃と推定されている。蔡倫自身が製紙法を編み出したのではなく、彼の元にいた技術者グループの成果であるとのこと。
有名な人物なので、蔡倫で検索すると、いろいろな記事が多い。切手もあります。


中国四大発明の一つである製紙法


*中国四大発明の一つである製紙法は、シルクロードを経て、793年バグダット、900年頃エジプトのカイロに、製紙工場が設立された。1141年にスペイン、1189年フランス、1276年イタリア、1390年ドイツ、1494年イギリス、1690年アメリカ、1803年カナダに伝わった。南方へは3世紀にベトナム、7世紀ネパール、インド、東方へは2世紀頃に高句麗に、さらに4~6世紀に百済に伝えられた。
*歴史学事典(弘文堂)から
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王羲之
2013年初冬に、書聖、王羲之の展覧会が東京国立博物館で開催されました。王羲之はちょうど、紀元300年前後に出現した人物といわれています。書を鑑賞の対象として、芸術の域に高めたわけですが、この時代急速に書が発展するのは、前記、紙の大量生産の手法が出現したということがあったと我が友人の小熊書家が述べられています。なるほど、時代が合います。展覧会に行きましたが、模写したのは、少しだけ後の時の紙ではあったが、緻密な紙に見えました。にじみは押さえられています。日本はまだ、統一されていなかった時代ですね。中国ではすでに、美しい漢字を鑑賞していたわけです。

日本の製紙のはじめ


蔡倫が完成した製紙法は、前述のように朝鮮に渡り、日本へやってきた。いつからというのは、はっきりしていないようです。
朝鮮を高句麗が統一支配した314年、その遺民が百済を経て日本へ渡ってきた。4世紀から5世紀は大和朝廷の基礎が固まった時期で大和政権軍と朝鮮、高句麗軍と何度も激突した。このとき、朝鮮からの渡来者が増えた。日本に、渡来者による技術革命が起きた。
歴史学事典によると、高句麗の僧侶、曇徴(どんちょう)が610年であると、日本書紀に記されているとのこと。久米氏は製鉄技術では鋳造から鍛造へ、製陶、織物は平編みから、綾や錦織りが発展した中で製紙もあったのではないかと説く。織物との関連が深かったのではないかという。古い製紙は麻、殻などの原料と処理をする水に恵まれたところで、機織り技術者の中での特志の工人によってはじめられたとかんがえられ、古い伝統をもつ越前、五箇には、紙祖伝説がある。

越前、岡太神社、紙祖 姫 川上御前

越前の今立は和紙の産地で有名だが、何度か訪れた。
1500年ほど昔、川上御前姫が紙を漉くようにとお告げがあり、紙漉きが始まった。これで村が飢饉などから救われた。
岡太神社(おかもと)があり、屋根、社殿の彫り物などおもむきのある造りとなっている。

岡太神社社殿
川上御前
玉を持つ龍
社殿の彫り物
神社の主か、大蛇に出会う 青色をしていた。

製紙が発展したと考えられるのは、戸籍の作成(540年頃から)と写経と考えられているようで、かなりの紙を必要とした。
700年前半には万葉集が編集されている。この時期、新羅では印刷技術ができていた。700年代という天平文化を形成する時代には宮廷は従業員157人の印刷工場を設けている。このことは製紙業の発展の要因であったにちがいないとのこと。
日本でも最初は大麻を使っていたが、次第に楮へ移行。さらに雁皮が広まり、三椏は1598年家康公黒印状に初めて使用された。書写で使用するために麻は繊維が長いので切断した。労力を減らすために、10mmの楮、5mmの雁皮、4mmの三椏へと移行した。
中国では大量の紙が生産されたが、朝鮮や日本では、紙の使用は上層階級に限られたため、生産の規模は小さかったのではないかと著者は指摘する。しかし、その半面では、質的な技術をみがいて、流し漉き法を開発したことは特筆されなければならいという。

さて、正倉院、天平の時代の宝物を保管してありますね。紙の保管状態がすばらしいことがあります。布類はくずれてしまっているのでだが、紙はそのままで変化していないのです。これには、とても興味を引かれたことを覚えています。この著書では、調査団が驚いたのは、727年から780年までの53年間で、紙名を記してみると233を数えたこと。この中で国産紙の比重は大きいと考えられた。紙への染色も発展していた。さらに、金、銀箔で加工した紙は、当時の工人の技術研究の成果であると述べている。

流し漉き技法


中国、朝鮮を経て日本へ伝わった抄紙法は溜漉き法であった。
流し漉き法はご承知のように、紙料と水、ネリ剤を加える。抄紙の時、簀桁へ浅く紙料を組み込んで、繊維が平均に簀の面全体にゆきわたり、薄膜を形成するようにすばやく、操作する。これを、化粧水、初水(うぶみず)、数子(かずし)といいます。2回目は、より深く紙料をすくいあげる。そして、簀桁を前後に揺り動かして、繊維を平均にからみあわせる。これを、調子という。そして、求める厚さの紙層ができると、簀の手元を水面と三十度ほどの角度に下げて、簀に残る半分の水を流して、残りの半量は反対に、前方に傾けて、押し出すように勢いよく流す。これを捨水と呼ぶ。この操作で黒点、浮塵、繊維の結束したもの、不純物をすべてきれいに洗い流す。ご承知の操作です。
漉きあげた湿紙は、一枚一枚紗などの布で隔離する必要はなくて、そのまま重ねて搾っても、一枚一枚はいで乾燥することが出来る。生産効率が上がる手法が出来たわけだ。溜漉きは漉きムラが出来やすいのに、流し漉きは漉きムラが生じない。流し漉きは厚手の紙といっしょに極薄の紙を漉くこともできる。
流し漉き法
-紙の質を向上
-成紙の厚さの範囲を広げた
これにより、用途が拡大して、日本独自の製紙法を完成させたもの。
ここで著者は、手漉き和紙が美しさに強さと粘りを加え、世界最高級の紙として評価されるのは、この流し漉きの技法があるためであると述べる。圧巻である。
さらに、我々がいつも感嘆するネリ剤が、技法の根幹にあるという。皆さんもそうでしょうが、私自身もそう思いますねえ。トロロアオイ、さらにノリウツギ、他には、アオギリ、スイセン、ナシカズラ、サネカズラ、ヒガンバナ、タブノキ、ウリハダカエデ、ギンバイソウ、スミレなどがあるそうだ。
ほとんどがトロロアオイを使うが、土佐泉貨紙にはアオギリ、宇和泉貨紙にはヒガンバナが使われているそうだ。
ネリ剤の働き
-繊維の配列が優美になる
-紙の強度が増す
-薄い紙を抄造できる
-湿紙の剥離が容易になる
-紙の光沢を良くする
温度に敏感に反応して、上昇すると粘度が一気に落ちる。
細菌、晒粉、酸などの薬品にも敏感に反応して、同様に粘度が下がる。
乾燥すると、その粘度が消えてしまうという神秘的な性質を示す物質。

小生も、昔の人がこの材料を探し当てたということはすごいことと思ってますが、色々な植物を次々に試して、努力の末、見つけていったのでしょう。これは、日本は世界でも希に見る自然が豊かな国で、山野には多種多様の植物が自生していることが大きいと思います。まさに日本人は自然とともに生きてきた証です。
天平の八世紀前半から九世紀の初めにかけて、この流し漉きが完成、さらに雁皮を使って、美濃では極薄の紙が生まれた。
備中の檀紙、播磨の杉原紙、越前の鳥の子紙、奉書紙の中で、美濃紙は中世の市場では最も多く流通した。文明年間(1469年~87年)から急速に美濃紙が普及しました。

和紙は日本の中世から、各藩の重要な収入源でした。つまり、米と同じ性格を持っていたようです。和紙漉きの技術は門外不出、持ち出したら打ち首で和紙職人は簡単に外へ出ていけなかったようです。また、農家の副業のようにもやっていくので、冬の冷たい水での作業は農家の娘たち、女性を悩ましました。越前に残る和紙の歌は女性たちに歌い継がれていきました。

西方への紙の道


さて、中国から西方への紙の道について書き出しましょう。
関係資料で紹介している ”紙の歴史 文明の礎の二千年”創元社を参考にして記述します。
6世紀以降に中東は、中国から紙が入ってきていた。一般的には羊皮紙を使っていた。これは、匂いが強い。本の書写材料はパピルスか羊皮紙だった。637年にアラブ人がメソポタミアのペルシャの首都を占領したとき、初めて紙の存在を知った。しかしそこには製紙所があったわけではない。このイスラムの軍が、紙の技術を持ち帰ることが出来たのは、751年に中国の支配下にあった中央アジアのサマルカンド(今のウズベキスタン)を占領、中国人の紙職人を捕虜にしただそうだ。サマルカンドの紙に興味があったが、中国だったんだ。ようやくわかりました。以降500年間、紙はアラブ、イスラム世界で発展する。サマルカンド紙は麻と亜麻を原料にしていた。794年頃、千夜一夜のバグダッドに最初の製紙所が設立された。その後、イエメン、ダマス、ティベリアス、トリポリに製紙所ができた。やがて、8世紀後半に紙はエジプトにあらわれて、パピルスを駆逐していった。935年にはパピルスは終わり、麻や亜麻の紙が作られた。現在のチュニジアのファティマ朝(909年~1171年)時代には北アフリカ、シチリアに広がった。コーランが製作された。シチリアはパピルスの産地だったが、10世紀には紙貿易の中心地となった。1072年パレルモはノルマン人の征服者の手に落ちた。紙は国家の正式な書写媒体となった。パレルモは製紙の中心地となり、シチリアの紙がイタリア北部へ急激に普及していった。
スペインへは、912年~976年コルドバのウマイヤ朝で発展する。さらにユダヤ人の職人たちの協力でアンダルシア地方へ広まった。1085年トレドへひろまり、北へ広がり、南仏へ到達する。
当時の紙料
麻がエジプトのデルタ地帯、スペイン東部、サマルカンド、シリア産などが主流であった。これらの繊維で織られた生地(麻の綱、古い亜麻布)が使われた。アラブの世界では、石灰水で漂白して、ノミなどで繊維をほぐしていた。これに対して、石臼で行う方法が出現した。それを動物を利用してほぐしはじめた。11世紀~13世紀(日本では平安時代)にかけて、どんどん北上していった。
イスラム教徒が紙を作った段階でいろいろ改善が行われた。土地の産物の利用があった。竹簀の代わりに細い葦のの茎や刷毛に馬の毛を使ったり、羊皮紙をまねて、填料と呼ぶ添加剤を紙の表面にすり込んだものもあった。。粉末の白粘土、石膏、真っ白な小麦粉などである。最後のサイジングでは重湯あるいは、澱粉糊が使われた。染色もされた。いわゆる、洋紙のサイジングのはじまりか、、、
イスラムの世界では、19世紀になるまで、コーランを印刷することはなかった。書写のみで印刷のような複製は異教徒の思想とされたのです。アラブの紙職人はカリグラフィー(書)芸術のためにマーブル紙を発明した。

アラブのカリグラフィー

横浜のユーラシア博物館で経験しました。 シャルジャという国のカリグラフィーです。ペンは竹製、インクは、どろどろでひっくり返してもこぼれません。これは、きっと、らくだに乗って、ゆらゆら、固めて置かなければならなかったのでしょう。

竹製のペンで書く
右から読む

13世紀の中頃に、ファブリアーノという町に突然新しい方法で紙を作り始めました。これ以降、イタリア各所に製紙所が作られた。イタリアの紙は質が良く値段も安く、アラブの世界へ次第に普及して行った。14世紀になると、西ヨーロッパへ広まった。
この時の技術革新は、石臼の回転はそれまで人や動物が行っていた。1200年代にファブリア-ノでは、水車が導入された。これはカム軸を使って木槌を上下させた。これで、品質が一定となり、原価が下がった。この時、簀も変化する。竹や葦の茎で出来ていたものから、真鍮の金属に変わった。さらに、東洋やアラブの紙はデンプン糊でサイジングしていたが,13世紀の終わりにイタリアの職人は動物のゼラチンが使えることに気づいたのです。デンプン糊よりも、はるかに透明で滑らかで防水性が優れて、丈夫になった。さらに、防虫効果があった。

14世紀になると、イタリアの独占も終わり、フランスやドイツで製紙所がたてられた。フランスは15世紀になると紙の輸出をはじめた。ヨーロッパでは、結局、原料は13世紀から19世紀まで古布であった。紙専門のくず屋がいて、回収していた。需要を満たせたのは、13世紀に亜麻の繊維が好まれて、下着が流行したそうです。これが幸いして、原料の確保が続いたそうです。透かしの発明;簀の網目が残ることから、これをウォーターマークといいます。ワープロの機能に入っているウォーターマークというのは、紙漉きからできた言葉なんですね。紙職人は積極的にシンボルや文字を真鍮線で作って簀の上に縫い付けたそうです。この頃の、紙の分離はフェルトを利用。結局、フェルトを一枚一枚間に入れていたそうです。100枚ごとに圧縮機にかけて量産。圧縮行程で1/3の厚さになると、セルロース繊維が水素結合して、強い紙に変わる。一分間に6から8枚、一日で1500枚の紙が製造された。風乾燥後、インクのにじみ防止のために、ゼラチン処理、乾燥して、女性達がコテをあてて、しわをのばした。商業主義の製紙工場が発展して、紙の量産システムが完成されていった。東洋、日本は手漉きであった。
面白い逸話がある。秀吉時代に若い遣欧使節団がヨーロッパに派遣された。
彼らが鼻をかむのに持っていた和紙を使い、それを捨てると、町の人は奪い合うように拾っていたそうだ。

印刷技術の発明

百万塔


ここで、重要な大変革がヨーロッパではじまります。印刷術の発明です。
紙の需要は、経済の発展に大きく影響されます。日本では奈良時代での写経などの世界があり、世界で最も古い印刷物が、百万塔という小さな木製の置物が作られ、その中に収められた。これは、ウィキペディアによると、764年(天平宝字8年)、恵美押勝の乱で亡くなった人々の菩提を弔うと共に、鎮護国家を祈念するために、称徳天皇(女性天皇)が発願したもので、この事業は文献にも記録があり、『続日本紀宝亀元年(770年)製作した大量の百万塔を法隆寺を中心として、諸寺に納めたことが記されている。(国立博物館で本物を見た。王子の紙博物館にも置いてあったと思う、)
 平安にいたって、美術紙への展開、室町、鎌倉とさらに、信長時代の楽市楽座、秀吉の時代江戸へと急速に発展していきます。紙は社会の基本的なインフラです。また、用途の上では、印刷術の発明が大きな影響をもたらします。

畢昇(ひっしょう、ピーシュー)


中国の北宋時代畢昇(ひっしょう、ピーシュー)970年頃?- 1051年が世界で初めて活版印刷を発明します。
北京オリンピックの開会式のショーで巨大な模型で見せていたのは、中国人の誇りなんですね。朝鮮を経て日本に伝わります。
昔、哈爾浜の印刷工場に行ったときには、大きな畢昇の素晴らしい絵画が飾ってあったのには、驚きました。横幅4m以上あったのではと思います。

巨大な絵画 ハルピンにて
説明部

グーテンベルク

ヨーロッパでは、これより、かなり遅れて、ご存じのグーテンベルクがドイツのマインツで、発明したとされています。しかし、はっきりはしていないようで、その前に、すでに色々な人が機械を発明して行っていたようです。グーテンベルクの発明は、いつかというのははっきりしないのですが1440年とされています。彼が有名になるのはナポレオンが支配していた1792年に、印刷の発明を政治的に利用しようと、ドイツ系のフランス人のクローツという人物が国民評議会でグーテンベルクを人類の恩人として「グーテンベルグの発明は、我々が未来を作り変えるための道具になるだろうと」叫んだ。
マインツのフランス当局はグーテンベルク広場を建設。有名にしたのはドイツ人ではないのです。しかし、グーテンベルグは意識されていなかったのですが、今度はドイツ人が、1840年に国家意識に結びつけて、89の町でドイツ語圏の人々は、発明を詩、パレード、コンサートで祝う。
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グーテンベルクが明確にして政治的に利用されます。
私がよく好きで聴くメンデルスゾーンの交響曲第2番賛歌があります。
大合唱も入る宗教曲で、一時間を越える大曲ですが、メロディックで宗教曲には思えません。メンデルスゾーンは印刷の発明の400年祭のためにライプツッヒ市から委託され、作曲した曲だったのです。
私自身がプリンター技術に関わるので長年興味を引かれマインツのグーテンベルグ博物館は何回か訪れています。グーテンベルクの印刷術の発明は、現在の金属活版の原型を発明したことが重要です。日本は木版だったわけです。金属版は強く長持ちする。これに直接、紙に押しつけ印刷していました。

ドイツマインツのグーテンベルク博物館
グーテンベルク

金属活版文字で組み版を造り、それに厚紙を押しつけ版下を造り、それに鉛を流し込むわけです。紙は円筒に出来るので、鉛を流し混んで、輪転機の円筒活版になります。昔、新聞社を見学するとこの工程を見せてくれました。つい最近のことです。さて、グーテンベルクは聖書を印刷するビジネスをやるわけですが、紙は当時、ドイツ製は悪く、イタリアから輸入します。最初は30から35部の印刷ですが、後、150部でなんと20万ページの紙が必要だったのです。版組も縦横比をご存じの黄金分割を利用したのです。段組の文字数や現代で通じる技術だったわけです。これで読みやすいということを知っていたのですね。書写していた世界が一気に、印刷術で世界が変わっていきます。これは、紙の大量供給できる生産がバックにいっぱいあったということになります。これが近代の印刷機という産業革命につながっていくわけです。ドイツは印刷機が強いのはこの歴史です。日本も強いですけどね。それぞれ、長い歴史の背景があるわけです。ヨーロッパでの紙の生産は中世に、どうやっていたのか調べてみたいと思います。余談ですが、グーテンベルクはベンチャービジネス。いつの世も同じで資本家と発明者がいるわけで、すったもんだするわけです。肖像画は残っていないので、後年、想像で描かれたよく見る絵です。ドイツの英雄の一人ですね。

グーテンベルク

15世紀から急激に紙の生産が伸びていきます。産業革命が起き、機械化が進みます。
15世紀の後半から、本の出版が盛んになった。さらに、ポスター、ビラが発行され、政治に利用されることにもなった。政治の権力は紙の統制へ向けた動きをした。さらに、定期刊行物、そして、新聞の発行となった。16世紀の終わりになると、イングランド銀行から信用貨幣として紙幣が発行された。
さて、一般的にはでこぼこのないつるつるした紙が好まれた。簀の模様を作らない技術開発がすすんだ。イギリス人のジョン・パスカヴィルは銀糸や銅糸を使って目の詰んだ簀を開発した。そして、1777年にイギリス以外で彼は同じものを作った。これを「ベラム紙」という名前でフランスで販売、やがてヨーロッパ全土に広がった。

ホーレンビーターの発明

17世紀の終わり頃、古布切断ロールがあり、この装置で、古布の発酵工程を省略できた。イギリス人が、鋼鉄製の刃を使い、回転速度を1分間に200回転させて、改良した。今、同じ形で、ビーターがあり、我々は利用していますね。
技術革新が進み、塩素を使う漂白技術がスウェーデン人の化学者が発見、黄みがかった古布原料が、白くなりました。酸化作用です。ところが、これが酸性紙のはじまりで、耐久性がないことがわかるのには、その後、時間がかかったそうです。ついこの間まで、複写機の用紙などは、酸性紙が主流でした。
さて、18世紀半ばからの19世紀の産業革命に入っていくわけですが、製紙技術はフランスでロベールという人によって製紙機械が発明されます。
非常に長い紙を作る機械として15年の特許が申請されました。これをその上司が買い取った。数日後、その義弟が設計図を盗んで、イギリスへ行って、特許を申請したそうです。これを機に、1803年以降、イギリスで製紙業の工業化が進んだ。ヨーロッパへ製紙機械を輸出した。1844年ドイツ機織り工のケラーがパルプの製造方法の特許を申請。1846年ドイツ人のフェルターがパルプ製造機を製作した。出来のいい紙ではなかったが、新聞に使われた。1860年にセルロースだけを取り出す化学処理が発明された。1880年には硫酸塩を使って、褐色のパルプが出来た。これで丈夫な「クラフト紙」が作られた。今も、よく使いますね。パルプを使う技術革命で、紙の生産が一気にはじけ、大量生産の時代に突入することになったわけです。産業革命の象徴的な分野ですね。
今や、製紙機械は1分間で1800m(時速108km)という超高速で、幅広の紙が作れ、全長150m、巨大な製紙装置になっています。まさに高速道路の自動車の速度です。
足早に現代へ来ました。



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