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「支線」――クルジジャノフスキイ『瞳孔の中』より

 2012年に刊行した、シギズムンド・クルジジャノフスキイというウクライナ出身の作家の作品集『瞳孔の中』から、短編「支線」を公開いたします。翻訳は秋草俊一郎さんです。
 秋草さんには、2013年に同じくクルジジャノフスキイの『未来の回想』を訳していただいています(「訳者あとがき」を公開しています。そちらもどうぞご覧ください)。

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支線

シギズムンド・クルジジャノフスキイ 作
秋草俊一郎 訳


 レールの継ぎ目が、軌道のスタッカートを刻んでいた。壁のフックにつばをかけられた制帽が、ラシャのこめかみから偏頭痛を振り落とそうとするかのように、しきりに身を揺らしていた。クヴァンティンは書類鞄を開くと新聞をとりだした。だが、頭上でくすぶるばかりの白熱灯のフィラメントは、睡眠を妨害するだけの光量しかないのだった。紙面のぼやけた八ポイント活字は、言葉のていをなすのをしぶるばかりだ。クヴァンティンは新聞をたたむと、窓ガラスに顔を寄せた。枝を黒いはりつけ台のように広げ、光から身を隠している松林の猫背の輪郭が、夜に倒れこんでいく。なんだか寒気がする。窓からの隙間風か、それとも風邪か、どちらだろう。クヴァンティンは頭を書類鞄にのせ、両脚に外套をかけようとした。だが袖の垂れた、丈の短いつるつるした外套の身頃はずり落ち、肩の下では固い板がガタガタ震えていた。起きあがって、寝ずにいたほうがマシかもな。もうさほど遠くないんだから。肺病病みの蒸気機関車は、しゃがれた声をもらすと息を詰まらせた。「迷子みたいだ」──そうクヴァンティンは思うと、肘をついて体を起こした。フックにかけた帽子は相変わらず揺れていたが、揺れ方は前より心もちゆっくりに、より思わしげになり、その下に両目を隠しているようにも見えた。「もし帽子の下、革ばりされたその裏地の下にある国や世界で──時々、いや、ごくまれに──頭蓋の縁で生まれた想念、なにかくだらない思いつきみたいなものが、隣りあっているせいで、帽子に迷いこんでしまって、頭から帽子への外出は、思考にはまったく気づかれない、そんなことがあるとする……それならば……」バンパー同士というより、羽毛の詰まった枕がぶつかりあったようなふわっとした揺れで汽車が急停止した。「それならば(きっと腕木信号機だ)……いや、いや、このまま『それならば』に沿っていくのではなく、支線に逸れるほうがいいだろう。帽子が頭にのっているみたいに、私たちの脳それ自体が別の脳にのっていると仮定してみよう、いまこの想念をめぐらせている大脳皮質下のやつが、私の思考を軽く持ちあげたりして愛想よく挨拶する──そこで会ったのは……」だがその想念を、腕木を下ろした信号機の影のようにさえぎって、耳に綿のような触感が──
「夢を見せてくださいませんか」
 クヴァンティンは軽く頭をあげた。車掌の制帽の縁飾りの下に赤毛の顎髭が、髭越しに笑顔があった。
「恐れ入りますが、夢を拝見」
 何を言われたかわからぬまま、クヴァンティンは言葉の意味ではなくリズムを追ってみて、ポケットからキップをとりだした。
「これですか?」
 ボール紙に鋭い音をたてて入った鋏が、車掌の手に戻った。下から青白いランタンに円く照らしだされると──パンチ穴越しに、あたかも絡まりあう光の糸が極小の窓を通して流れてくるかのように──極彩色の点、線、輪郭があらわれた。クヴァンティンは目を細めて凝視しようとしたが、その小窓はすでに車掌の手のひらに飛びのっていて、青白いランタンはそっぽを向き、髭の向こうから笑顔といれかわりで言葉がとんできた──
「急いでくださいね。起き過ごさないように。乗り換えです」
 クヴァンティンは訊きたかった──どこに、それになんだって夢がでてくるのか。だが、車掌の後ろ姿はもうドアからすべり出ていて、客車の仕切り一〇枚ほど隔てたどこか向こうから張りのある声が響いていた。「恐れ入りますが、夢を拝見」
 仕方ない。クヴァンティンは席を立って出口に向かった。彼の両脚はどこか綿のように虚ろで、かろがろとしている。肘で脇にはさんだ書類鞄は柔らかく、弾力があり、夜に備えてたたいてふわふわにふくらませた枕のようだ。足どりはステップに導かれるまま降りていく。靴底ごしに感じる地面はあたたかい。停止している列車から離れると、新しい車両がある。クヴァンティンは闇をぬけて、ぜえぜえ息を吐き出す汽車の上方に沸きあがる火花の柱の方に歩いていった。火柱は七色の焚き火のように上空に沸きでると、燃えさしになって地面に落ちていく。そのきらめきの中に、汽車の煙突が輪郭を浮かびあがらせていた。大口を開けた漏斗、月面のクレーターみたいな煙突を支えるひん曲がった一本足は、走りをおぼえたばかりの汽車が、レールの上にけだるげに寝そべっていた未踏の空間をピストンで押しのけていた、かつてのジョージ・スティーブンソンの時代を思いおこさせた。客車はといえば、屋根は陥没し、関節のように繋がって突き出ている段が備えつけられた、とうの昔に作られなくなったものだ。「支線……」クヴァンティンは考えた。「錆びついた狭軌のレール、車輪つきの石棺、大事故行きにならなきゃいいが」だが、暗く低い車両にそって、ランタンの青白い目はすでに滑っていた。汽笛がこおろぎのような甲高い音程で闇を貫き通した。階段につまずいたクヴァンティンは、ちょうどいいところにあった手すりをつかんで車両に飛び乗った。バンパーがダラララとティンパニーのような音をたて、汽車は動きだした。最初のうち、車体の窓は外気にゆっくり身を擦りつけていた。古い機関車は──踵からひっきりなしにずり落ちようとする柔らかい夜用スリッパを引きずるように──蒸気を引きずりながら、闇夜を抜けていった。それでも車輪は徐々に速度を上げていった。加速しながら回転する糸巻き(ボビン)から糸が縒りもどされるように、車輪からレールがほどけていった。車体の湾曲したスプリングが、レールの継ぎ目で悲鳴をあげた。汽車の胸板で切り裂かれた空気が、車体の隙間という隙間から吐きだされてざわめいた。窓は夜を追いぬき──あまりに速く明滅するせいで、輪郭が溶けあってしまった角と曲線の衝突を振りあげ車輪の疾走に追いすがる──青白い薄明をもすでにすべり抜けていた。指先から跳んで逃れようとする壁をつかまえ、クヴァンティンはガラスについた革ばりの取っ手をひきおろした。ガラスは、カチャンという高い音をたてて滑り落ちた。穏やかな、湿った熱帯の風が、顔に吹きつけてきた。瑠璃色がかった空気の中、見慣れない樹の影が汽車のすぐ脇を飛び去っていく。丘のあちこちに群生するこの樹木の幹は、鱗で覆われた裸体を上方に曲げ、てっぺんで巨大な緑の葉を広げようとしていた。「椰子の木だ」──その思いも、風とともに額をかすめていった。クヴァンティンはなんとか事態を飲みこもうとした。沼地に生える柳や、寒がりの白樺、針に覆われたような針葉樹の林にどうして突然?……だが汽車の速度は、想念半分、車輪半回転分ほど論理を追い越していたようだ。そのあとから暖かい風──魂をなでる羽のような──が吹いた。赤熱した煙突から吹き出る火花とともに、極彩色の鳥の群が眼前を飛び去り、クククク、ココココという鳴き声が耳をうった。遠くで地崩れが起きるくぐもった音や、風によって見えない反響板からつまびかれた弦がたてる撥音が開いた窓に押し寄せてきた。見知らぬ草のつんとする香気が、鼻孔に潜りこんできた。どっと入りこんできた青白い空気に流されて車両に迷いこんだ蝶が一頭、しわがよった翅を頭上の網棚にぶつけていた。クヴァンティンはその鱗粉の模様を知っていた。学名ウラニア・リペテウス、緯度二〇度を越えて飛来することのない、亜熱帯に生息する種だ。昆虫の分布図が載った図鑑のページが、色鮮やかな相似物を記憶の中で翅のように掲げ、ふたたび表紙の下に寝かせた。汽車の速度が落ちてきていることにクヴァンティンは気がついた。車両の熱を帯びた側面はまだ慣性の力で揺れてはいたが、たわんだバネがきしむ音は低くなり、音の間隔も開いてきていた。窓に映る影はゆっくり、鮮明になっていた。車輪の下でレールの継ぎ目がガタン、ゴトンという音をたて、橋桁がまたぐ空間がうなり声をあげていた。ポイントがカチリと切りかわる音がして、ちぎれた糸にも似た長い汽笛が鳴り、汽車が喘息ぎみに息を吐いて叫び声をあげると、車両の階段が地面に架かった。クヴァンティンは床に放りだされていた書類鞄を探りだすと、あたりをきょろきょろ見まわしながらホームに歩みでた。そのガラス張りの壁面の下は空っぽで、物音ひとつしなかった。「乗っていたのは本当にぼくひとりだけだったのか」乗客は当惑して、もう一度あたりを見まわした。誰もいない。ひとっこひとり。半人前さえも。ただ、宙に伸びた平べったい腕が道案内をしているだけだ。青白いマニキュアを塗られた巨大な爪が自分の背を指しているのを意識しながら、クヴァンティンは通りすぎた。光は薄明にしては少し澄みとおりすぎていて、日中にしては薄暗すぎた。余所者はひとりきりで、目を凝らして時計の文字盤を探しだした。だが、天蓋に隠れた数字と針は、夜の喪布にくるめとられてしまったようで、目は時間を判別することはできなかった。両側の壁は狭まって通路になった。もう一度、なにもない空間を見まわした乗客は、壁が続くほうへと向かった。はじめのうちはぴったり敷きつめられた石と、それを足が打つ音以外はなにもなかったが、遠方のトンネルの開口部に明るく見えてくるものがあった。「早く出たい」足どりを速めたクヴァンティンは、石の天蓋の下に、こちらに向かって貼りだされている大判のポスターを目にした。文字へと頭をあげるよりなかった。

   !すべてを重夢の
       重工業へ!

 棍棒状の黒い感嘆符が二つ、スローガンの左右に立って言葉を警備していた。「戻ったほうがよさそうだ」だが背後で凝固した沈黙が、歩みを進めるよう押しやってきた。心臓の鼓動は一層早く、大きくなり、足どりは静かにゆっくりになっていく。
 突然トンネルがとぎれた。クヴァンティンは広場に通じる階段に出た。頭上をさえぎっていた石の天蓋のかわりに、今では青空が広がっていた──だが視線の先、せわしげに蠢いている群衆の上空では、ほうり投げられた縄と蜘蛛の巣のように繊細な網のただ中で、なにか奇妙な煙の塊のようなものが、輪郭を流動的に変えながら蠢いていた。人々は無言のまま、一心に働いていた。上空にほうられた糸は投げ縄のように縒りが戻ると、広場に流れついた巨大な塊のくすぶる脇腹に次第に巻きついていった。いくつかは上空に逃れようとしたが、何百もの腕によって地面の方へ引っぱられていた──その光景は、銛を刺されて泡立つ海面にゆらゆらと生気のない背中をさらしているクジラのようだった。なにが起こっているのか、クヴァンティンにはすぐ理解できなかった。とらえられた輪郭のうちひとつが、偶然網から滑り落ちて屋上に浮かび、透明な羽毛に覆われた外形を揺らしながら、風に持ちあげられてすばやく逃げだしたときになって、やっとはっきりした。眼前でおこなわれているのは、雲合霧集して山間を流れる雲の狩りだ。
 クヴァンティンは階段を降り、広場の端を通りつつ黒雲の吹きだまりから出ようと歩を進めた。狩りの真っ最中ということもあり、みな、手と目がふさがっていたので、書類鞄を脇に抱え、慎重に人波をすりぬけ街路の網に向かう余所者の人影に気をとめるものはいなかった。
 歩きだしたはじめこそ、家々の張り出しと角にぶつかりながらだったが、そのうち空気が次第に晴れると、色と形が鮮明になりだした。前方には生い茂った街路樹の下、広々とした通りが伸びていた。やや弱められた陽の光と影をまとい、その通りはさらに歩みを誘うのだった。日中らしいというのに、窓はみな、ブラインドのまぶたで閉ざされ、締められたカーテンのひだの向こうに隠れている。ベンチには影がふんわりと敷きつめられ、あちこちに人々が腰かけている。ごくまれにゆっくりとした足どりで通り過ぎる人もいた。ひとり、大ぶりな帽子のつばで顔を隠した男が、ほとんど肩と肩が触れあうくらいそばを通った。短く息を吸う合間に、長く息を吐き出しているその男は、深い眠りについているかのようだった。クヴァンティンは行き先を変更して後をつけたくなったが、この時、別のことに注意を引きつけられた。男が電柱の根本に立って、足に重い金属の鉤を括りつけていた。ただの電線修理工にしては、その衣服はどこか奇妙だった。優美な燕尾服、白いチョッキに、エナメルのブーツは鉄製フックの物々しい半円形に押しこまれている。傍らには道具箱のかわりに楽譜のファイルがあった。クヴァンティンは立ちどまって観察を続けた。最後の革紐を締めると、燕尾服の人物は電柱に金具をカチャリカチャリと一足ずつひっかけ、電線を目指して、くるぶしを使ってゆっくり登り始めた。ベンチで固まっていた数人が顔を上げた。二、三人の通行人が立ちどまった。カフスがひとつ、平行に並んだ電線の弦の上に舞いあがると、金属のアルペジオが街に響きわたった。ブラインドは緑色のまぶたを少し持ちあげて待機していた。音楽家は風に舞う燕尾服の翼のような裾をひるがえすと歌いだした。

 淑女紳士のみなさま、夢みる人にみられる夢の方々、
 太陽はぼろ財布からこぼれた一グロシュにすぎず
 隙間に落っこちるみたいに、夕暮れに落ちました。
 また、エゾマツが椰子の夢をみるときがきたのです。
 生とは影のしとねにすぎず、光陰レーテ河を飛びこえたり。
 眠ることは死ぬこと。つまりは「詩人に権力を」。

 鈍い和音が、電線をうなって電柱から電柱へと伝わった。歌手は細めなおされたブラインドにお辞儀をして降りはじめた。
 街はふたたび水を打ったように静まりかえってしまった。せめて足音で静寂を乱そうと、クヴァンティンは先に進むことにした。
 突然、黒い扉から出て、歩道を横切るものがあった。影に潜りこんだり、光の中に浮かびあがったりしながら──ちょこまかすばしっこく動く黒い人影だ。地面に擦るほど丈の長い長衣(スータン)をたくしあげ、鷲鼻の横顔を右、左とくるくるさせながら、二軒の家の間に割りこむようにして視界から逃れた。だが、消えた頭の、銅版画のエッチングのような輪郭、肩までかかるひだ飾りをつけた長方形の帽子に押しこまれて四角くなった額は、奇妙にもどことなく懐かしく──虫が食った古本の、あのかび臭さが漂ってきそうなものがあった。クヴァンティンは歩みを速め、後を追った。そこは路地だった。交わった影が落ちる中を、路地は音もなく直進し、次いで脇にすべっていく。壁の隙間の人影を追ったクヴァンティンは、角を折れる黒い背中と、裾をさっと持ちあげる鋭い肘の一振りを目でとらえるのに成功した。記憶と人に追われつつも、人影は一層足を速めた。だが、追いかける側のほうが、歩幅も広く、足どりも力強かった。たるんだ裾を踏んでつんのめり、長衣はどん詰まりの壁から壁へとうろうろしていたが、そのうち爪に捕らえられた鼠のように、鋭い歯をこちらに剝きだした。憎々しげに、それでいて驚いた様子で襟から伸びた首は、のど仏から後頭部にかけて剃刀ほどの厚さの血ぬれの切れ目が入っていた。「モア!」クヴァンティンは叫んで、その名につまずいたかのように立ちどまった。トマス・モアは一刻も無駄にすることなく、どこかの地下室に駆けこむ階段に身を投じた。背後に足音が聞こえないとなると、彼はまたふり返って余所者を凝視した。萎びた親指が感嘆符のように伸び、糸のような唇が波うった。
「衛生学的に有益な助言をしてやろう。頭を肩の上であまり着古すな。最初は思考をさずかるが、次に斧が降ってくることになる。帳尻合わせというやつだ。つまり頭とかしらで貸し借りなしになる」
 クヴァンティンが口を開くよりさきに、地下室の扉が閉じられた。近づいたクヴァンティンが見ることができたのは、さびれた階段の入り口にかかった、重々しく角張った古い看板だけだった。なかば錆びに浸食された文字にはこうあった。

   ユートピアの卸売り供給会社。創立……

 時間の経過によって摩滅した年号は判読不能だった。
「そうか、もしやつがここでユートピア的社会主義の輸出を仕切っているのなら、つまり……」──落ちていこうとする階段を追って、すでにクヴァンティンは片足をかけていたが、突然のざわめきに身構えた。正面から──曲がりくねった横町を抜けて──ガラスが鳴るような、膨らんではけたたましくはぜる泡の音のような合唱が近づいてくる。どこか調子はずれな、ゴボゴボ、グワグワという陽気な音をたてる楽団だった。さらに少したつと、ガラスの歌い声を破って、ザッザ、ザッザッザという整然とした足音が響いてきて、ついでゆらゆら揺れる旗竿が角を曲がってあらわれ、ついには行列そのものが出現した。まず、クヴァンティンは竿の上で揺れているスローガンに視線を引きつけられた。あらゆる不覚醒者に栄光あれ──それから同じくらいふらつきながらスローガンの文字を追いかけている人々に目がいった。楽団は落ち葉の山が風に舞うように、でたらめに動いていた。楽士たちは底がぬけたガラスのビンを口から突き出していた。吹き出す息と浮腫みでふくれあがったその頰は、流しこまれる美禄を通して、はぜる泡の行進曲を高らかに噴出していた。空になることがないガラス製の漏斗に向かって、欲情して赤紫に腫れあがった鼻が勃起していた。何百という手で壁をつかみ、行列の姿形を失いながらも、行進は続いていた──湿った狭い隙間を好むぬるぬるした体の大ムカデのように。
 行進が壁をたよりにしやすい狭い横町を選ぶのは、偶然ではないのだろうと考えつつ、少しの間、クヴァンティンは怖いもの見たさで行進の後をつけてみた。だが、ちょうど目の高さに迫ってきた石から、だしぬけに身を乗り出した小さな字の長文広告が彼の注意ばかりか、歩みもひきとめるのだった。広告は丁寧な、押しつけがましくなりすぎない宣伝調で「重夢」なるものの長所をアピールしていた。すでに一度同じテーマに出くわしていた余所者の脳は、一行づつ注意深く、石に貼りだされた小文字を飲みこんでいった。それはこう呼びかけていた──「脳繊維の根幹に刺された金糸から生まれる軽工業や、いわゆる快適な夢の製品に比して、悪夢の重工業の主要なメリットは、悪夢を売りさばくことで、私どもは悪夢の実現を保証できる点にあります。購入者に『夢をつかませ』正夢にするのです。浅い眠りは現実との摩擦に耐えられず、寝ぼけた幻想は一本糸で編まれた靴下より早くだめになりますが、どっしりした重夢は──シンプルでも、仕上げが丁寧な悪夢は──たやすく人生に同化します。重い枷がまったくない夢は砂上の雫のように消えますが、夢のヴィジョンはある程度の硬度と強度を蓄えていますから、陽光で蒸発するさい、かの有名なプラトンの洞窟の丸天井に自分の硬い種子を残すでしょう。こうした残留物が積み重なって大きくなり、次第に剣のような鍾乳石が垂れさがるのです」
「ですが、より現代的な用語で言えば、」小文字は新しい段落で話をついだ。「脳にのしかかる悪夢、わが社の製造品は、いつ何時頭に崩れ落ちてくるかもしれない道徳の天井のようなものになっていきます。購入者の中には、これを『世界史』と呼んでいる方もいらっしゃいます。もっとも問題は名称ではなく、私どもの悪夢の耐久性や、不覚醒性や、高度の抑鬱性や、お求めやすさにあります。これは広範にわたる大量の消費に応えることによってのみ実現するものです──つまり、あらゆる時代と階級、夜中と白昼の夢、月下でも日向でも、閉じている目も開いている目も想定しており」クヴァンティンはさらに読みすすめようとしたが、そこから下の紙は破りとられていた──おそらく、通りすがりの酔っぱらいだろう。文書から目を離して、彼は耳を澄ました。遠方で響く不覚醒者たちの賛歌は、聞きとるのがやっとになっていた。迷子になりはしないかとおびえつつも、彼はこだまの後を追いかけた。だが、狭い道の枝分かれに突きあたった。右か、左か?あてずっぽうに進んでみたクヴァンティンは、まもなくあやまちに気がついた。石造りの肋骨(リブ)を折り曲げながら、路地はざわめきから遠ざかるほうに続いていた。隙間をのぞかせていたブラインドのエラが、やはりぴたりと閉じたつんぼの鎧戸に変わっていた。おそらく、ここに不測の音波が迷いこんだら、自分の曲線を屈め、びくびくと外耳を避けるようにして通りぬけるのだろう。クヴァンティンは一歩一歩、辛抱強く歩きつづけた。交差点もなければ、通行人もいない。筋肉に疲労が染みこみ、こめかみに澱んだ血が重みを増していくようにうずいていた。
 突然、角からさほど大きくはないが、はっきり聞きとれるざわめきが響いた。クヴァンティンは帽子から埃を払うように、脳から疲労をふり払うと、ここぞとばかりに音のした方に飛びだした。通りに面した壁の扉が開けはなたれていた。戸口のステップに荷馬車が停まっていた。数人の男たちが黙々とステップを上り下りしながら、柔らかそうにふくれた包みをつぎつぎと車のゆりかご型の底に積みこんでいる。一目見てすぐわかった。枕だ。綿毛の腹をお互いにくっつけあった、よく肥えた四角い枕だ。クヴァンティンは近づいてみた。緑の前掛けをした男が、くわえたパイプから煙を漉しながら、歯をたまに開いて短い命令を発し、枕の山をすばやく大きくしていった。余所者を見つけると、男はクヴァンティンの視線をパイプで受けた。
「夢を供給してたら、眠るなんてできません。働かなくちゃ。眠ってなんかいられませんよ。よく眠りつくされた枕──何百万という枕元に供されてきた、昔ながらの夢想生産の道具です。枕カバーにしまいこまれた羽毛をちょっとだけ触ってみればすぐわかる……。ほら……いかがです?」
 前掛けでぬぐった手のひらを、ふくらみのひとつに押しあてた。するとすぐに──指の隙間から──色とりどりの軽やかな煙がゆっくり立ちのぼると、不鮮明でおぼつかない形を象った。空いている方の手が前掛けの下につっこまれると、クヴァンティンの前で拡大鏡の透明な目がふくらんだ。
「この方がよく見えるでしょう」
 拡大鏡ごしに目を細めたクヴァンティンには今、ありありと見てとることができた。手のひらで押さえつけられた枕から人々、木々、渦を巻く螺旋、身体、はためく洋服の姿がたちのぼっていた。どうやら、男の指に漉しだされて漂っている色鮮やかな気体は、互いに流入しあう無数の世界に向かって開かれた格子窓になったようだ。
 職人は虫眼鏡をクヴァンティンから離した。
「こんな具合です。どんな羽毛がこのふくらみに詰まっていると思いますか? 無数の小さな翼性に分解された羽、綿羽の中で粉砕された飛翔です。枕に詰めて縫い合わせると、この小さな翼性は飛びたって逃れようとして、中で羽ばたきます。うまくはいきませんが、その霧状になった飛翔に脳がさらされるまで、念入りに枕をふくらませてくれるのです……それから……。人間の脳が枕に惹かれるのはごく自然なのです。枕と脳はいわば親戚なのですから。実際、頭のてっぺんのすぐ下にあるものはなんでしょう? 三枚の枕カバー(そちらの学者はそれを髄膜と呼んでいますね)に包まれた多孔性で羽毛状の灰白質じゃないですか。そう、眠っている人はみな頭の中で、自分で思っているよりも、いつも枕ひとつ余計に持っているんですよ。どうして卑下する必要がありましょう。出発!」
 明らかに、最後の言葉は荷馬車に向かってのものだった。けだるげに輻を動かした荷馬車は、眠りつくされた大量の枕をバネの振動で寝かしつつ動きだした。帽子のつばに手を触れクヴァンティンは車を追おうとしたが、緑の前掛けをした男に制された。
「少しだけ入ってみませんか。敷居に足をとられないように。ほら。では、私どもの最新モデル、究極誘眠剤(ソムニフェラ・ウルティマ)をお見せしましょう。カモフラージュタイプの枕なんですが」
 男が紐を引くと、倉庫のしきりのひとつが降りて、中からぱんぱんに中身が詰まった書類鞄が、四つ角で互いの四角をぴょんぴょん飛びこえながら、黒い奔流となって溢れでた。
 職人の腕が、はねる書類鞄の角をつかまえた。
「ほら、どうです。改良された無意識の想念ですよ。でも、もう持っているようですね──やっぱりうちのブランドだ。なんだそうか。数値、プロジェクト、図表、総括、展望まで詰めこんだこの革製の黒い枕カバーこそが、昔ながらの普通の寝室用枕と比較して大きな前進なんですよ。マットレスも、消灯も、そのほかもろもろも要りません。もう眠れずに頭を患わせたり、視界をまぶたで隠す必要はありません。これを肘の下に置いて寝入るだけで、垂直体勢を水平にせずに、目を開けたままで、日が明るいうちに、これ以上ないほどの深い眠りに入りこめるのです。自分が活動家で、支配者で、社会運動家で、新しいシステムの考案者だと夢みることができるのです──肘の下ではち切れんばかりにふくれあがった書類鞄が、夢から夢へと駆りたててくれます。すべてがふくれあがります。肝臓、野心、さらには脳もです。脳は押し広げられ、脳回はみな均されます。入念にふくらませた枕のように脳はなめらかになり、思考とは切り離されます。そうです、たしかに、この肘下式枕は試作第一号です。それ以上のものではありません。ですが、これがもたらす成果は今予言するのが難しくないものです。やすらかに人々を寝かしつける技術において、未来は書類鞄のものなのです!」
 倉庫から出ると、通りの青白かった空気がいくぶん色を濃くし、うす暗くなってきたことにクヴァンティンは気づいた。あたりを見まわしてから、さらに進むことにした。小川が湖に注ぐように、せまい街路は速やかに、切りたった岸辺のように家屋に囲まれた円形の広場に注ぎこんでいった。クヴァンティンの視線は、芝生が盛りあがった広場の中央にすぐに釘づけになった。そこでは、噴水の透明な枝ぶりの下にケシが繁茂していた。そのぱっくり開いた、湿っぽく血色のいい唇からアヘンのかぐわしい香りが漂っていた。芝生の周りには、間隔を開けずに設置されたベンチがあり、うなだれた人影が肩を寄せ合っていた。顔を手のひらで覆い、肩に頭を沈みこませ、腕は垂れ、ケシの赤紫の花の口唇に向かって口を開けていた。
 クヴァンティンは足どりをゆるめて近寄ってみた。刺激臭が鼻孔を貫いて脳に達した。ケシの真っ赤な斑点に引きよせられ、彼はもう一歩近づこうとしたが、誰かの手に肘をつかまれた。ケシと同じ赤い上着を着た男が、瞳孔が散大した目でとがめるような微笑を浮かべていた。
「部外者立入禁止です。出ていってください」
「よくわからなくて……」
「わかることも厳禁。夢は夢みる権利を奪われてはいない。そう思いませんか? 出ていってください」
 だが、そのときそよ風がケシの茎を揺らし、花々の吐息がクヴァンティンの脳にかかってしまった。クヴァンティンはその場を離れる機会を失った。ケシの花粉は──一陣の風で──茎から透明な小雲となって離れて地表をすべりだした。風にとりまかれた雲はたちまち実体化し、輪郭で象られた。その下の縁が地面に触れると、驚いたことに細い裸足のくるぶしがはっきり見てとれた。くるぶしの上にひざと太ももの曲線が沸きおこりつつあった。そしてさらに、なにか形が整わない塊が、輪郭が縁どりされた女性の体のまわりで震えていた──だが、風の最後の一押しで吹きはらわれると、人影はなすがままになって前方に滑っていった。クヴァンティンは一瞬のきらめきも見落とすまいと、息を殺して後を追った。女性はふり向かず、崖ぞいを這う霧のようにゆっくりと、締めきられた扉が連なる街路を抜けていった。クヴァンティンは音をたてないように努めながら用心深く足どりを速めた。お互いの距離はすでにかなり近く、彼の吐息が彼女の肩に追いつこうとしたまさにその時、突然扉のひとつが騒々しく開いた。痛烈な隙間風が幻影の体をうち、彼女の形をほぐしてくしゃくしゃにしてしまった。消失の苦しみにのけぞった顔、大きく広げた両腕と、溶けた胸がかいま見えたが、それも刹那的なものにすぎなかった。クヴァンティンは助けに飛びこもうとしたが、すでに前方には空っぽの空気をのぞいてなにも残っていなかった。
 幻像を殺した扉が手招きするかのように開けはなたれていた。クヴァンティンが頭をあげると、戸口の上に黒い字ではっきり書かれた表示板があった。

   夜間講座・夜のヴィジョン

 彼は中に入った。螺旋を描いて昇っていく階段には誰もいない。どこか壁の向こうから起伏のない、まれに間がはさまる声が聞こえていた。どうやら講義は始まっていた。階段は講堂に続いていた。そこはがらんとした、うす暗い空間だった。クヴァンティンは手すりに歩みよるとのぞきこんだ。背の高い厳かな演壇。その上で点灯するおぼろげな灯光の輪はクルックス管のゆるやかな放電を思わせた。光を浴びているのは、剝きだしの頭蓋で、乱反射する汗ばんだ皮にくるまれ、頭のてっぺんには瘤が泡のように沸きたっていた。周囲の何十という耳をそばだてた頭に演壇からのりだすようにして、その頭蓋は自分が発する言葉に合わせて粛然と揺れていた。
「そこで次のことが、われわれにも奴らにも明白になった。夢の帝国が攻勢に転じねばならぬ時がきたのだ。これまでわれわれは二つの薄明の狭間、ニューロンの切り離しの間、暗い隙間、『第三の人生』とでも言うべきものの中で生きることを余儀なくされてきた。奴らの太陽がわれわれに譲り渡したこの三分の一は、十二分に蔑まれてきた。とっくに枕と頭は場所を交替してもよかったのだ。何千年という永きにわたって、奴らの口に枕の上でいびきをかくことを許してきたのなら、今度は奴らの口を枕に押しつけ、その下であえがせてやる番だ。むろん、これはイメージ以上のものではない。しかし事の核心は、終わらせる時がきたと言うことだ。時がきた。何百万にもおよぶわれらが夜は、事実の軍隊に対抗して事実を襲撃し、敗走せしめるために十分な夢を蓄えた。作戦上の任務の概略はこうだ。『現実jav’(ヤーヴィ)』を『私ja(ヤー)』の中v(ヴ)に追い立て、その上で『私ja(ヤー)』からすべてのv(ヴ)を切り離すのだ。いわば、太陽から光をちょんぎってしまうのだ。もちろん、かつてデリラがサムソンにしたようにあらかじめ眠らせておかねばならないが。ああ、人々は夢がどんな脅威を秘めているのか夢にもわかるまい!」
「今までおこなわれてきたのは、敵陣深くまで達する偵察や、頭と枕元の小競り合い程度にすぎなかった。闇による一撃を与え、敵を転倒させてのしてしまうことには成功してきたが、一時的なことだった。夜明けごとにわれわれは何百万という散大した瞳孔の下にはまりこみ、夜へと後退を余儀なくされてきた。われわれの敵は強大だ──どうしてそのことを隠そうか──奴らは不眠症を創造的に用いる技術を熟知しており、目ざとく、進取の気性に富み、飲みこみが早い。奴らが寝ている人を襲う方法を会得したのはわれわれからではないのか?」
「だが、今や状況はわれわれの利するところに急速になりつつある。パスカルはすでに現実を夢の世界から切り離すことに成功していた。『現実とは』彼は断言した ─『一貫性があるものだ。一方、夢はたよりなく変わりやすい。もし、人がいつも同じひとつの夢しかみず、いつも新しい人々と新しい環境の中で目覚めるならどうだろう。現実は夢に思え、夢はまさに現実の特徴を備えているように見えるだろう』これ以上、明確な定義はない……。だが同様に、みなに──奴らにもわれわれにも──はっきりしていることがある。パスカルの時代に比べて、現実は多くの安定性と不変性を失っている。近年の諸事件は、波が甲板を揺るがすがごとく現実を揺さぶっている。ほとんど毎日、朝刊は起きているものに新しい現実を与える、一方夢は……。われわれは今すでに、夢を一元化できたのではないか……。われわれは人類に、この上なく甘い、何百万という脳がみる友愛の夢、統一についての唯一の夢をもたらすことができたのではないか。ケシの花の色をした旗は群衆の頭上に翻っている。現実は防備を固めている。だが、天へとほとばしり出た地下(アンダーグラウンド)は、赤く燃える太陽を恐れはしない。眠りにつくものの目は、まぶたの盾に守られている。つまり、昨日はまだユートピアだったものが、今日は科学になったのだ。われわれは現実を打ち負かす。われわれは現状の体制(スタトゥス・クオ)を完膚無きまで粉砕する。諸君らは体勢を崩して逃げ去る現状を目の当たりにするだろう。もし、『私ja(ヤー)』がわれわれmy(ムイ)にはむかおうものなら、穴にv jamy(ヴヤームイ)、悪夢の井戸に脳天から投げ捨てよう。太陽を黒点でおおい隠し、全世界を身じろぎできないほど深い眠りに沈めよう。目覚めという観念そのものを眠らせ、もし目覚めが抵抗するなら、その目をくりぬこう」
 演説する人間の剝きだしの頭頂部は、寄ってきていた頭の方へ演壇からのりだしていた。
「夜が音もなく進軍し、われわれの敵の耳が枕に突っこまれたとき、私はひとつの秘密から封印をとく。聞くのだ諸君。断ち切りがたい夢の枷をはめられて、現実が盲目に、無力になるとき、現実がついに打ち倒されるときこそ、われわれは古来より秘された計画をなしとげる……」
 講師の声は明瞭さこそ失わなかったが、今やまるで弱音器の吹きこみ口から響いているようだった。クヴァンティンは向かってくる言葉に寄っていき、ホールの手すりに肘をついて上体を前傾させた。講師の言葉に引きこまれたせいで彼は書類鞄のことをすっかり忘れていた。ゆるんだ肘から解きはなたれた、ぱんぱんに書類が詰まった革製品は、突然肩の下からすべり出て、宙に弧を描くとランプの笠にぶつかり、張りだした演壇にあたってひっくり返りながら、ばたりと騒々しい音をたてて床に身を横たえた。灯りが壁面を走った。演説者の伸ばした腕は宙で凍りついた。額という額がみな、上を見あげた。
「斥候だ。スパイだ。つかまえろ」
 クヴァンティンは一瞬たりとも無駄にできないのを悟った。筋肉が身体を収縮させた。螺旋を描いて落ちていく階段を両の踵でうちながら、彼は一直線に向かってくる声を聞いた。「出口をすべて閉めろ」─「聴講席を探せ」─「急げ」クヴァンティンは手すりをまたぎ、宙に飛びだしてしまう危険を承知で螺旋を滑りおり、近づく足音を出しぬくと表に飛びだした。百歩もいかないうちに十字路だ。クヴァンティンは進路を急に変更して、手近な低い門の下へと潜りこんだ。中庭──ふたたび門──多角形の中庭がもうひとつ──街路。幸運にも通り抜けることができた。クヴァンティンは足どりをゆるめたが、彼の呼吸だけがひっきりなしにハッハッと吸いこむ息の疾走を続けていた。用心深くあたりを見まわすと、町は青白い空気から夜の黒い作業着にあわてて着がえているところだった。路面に身をかがめた街灯の弧の下で、ガラス製の透明な糸巻きが回り、闇が半透明な黒い糸になってほどけていた。黒い光の糸は次第にすべての空間に満ちていき、かろうじてそれとわかる街灯の回転する胴体は、驚いてセピア色の墨を吐きだすコウイカに似ていた。罠から逃れた「斥候」にはおあつらえむきだ。突然、耳に飛びこんできたその言葉は、今、クヴァンティンには鍵がカチリという音のようにも、現実への合い言葉のようにも、あるいはもっとそれ以上の、ここ夢を輸出する街にはりめぐらされた蜘蛛の巣のような路地での、恐怖や迷走、危険のすべてを説明してくれるスローガンのようにも響いていた。「斥候l-a-z-u-t-ch-i-k(ラズートチク)」と声にださずに調音してみた。すると、その音の中に笑みひとつが紛れこんでいるような気がした──ここ、悪夢の工場の息苦しい壁に囲まれてから、口元まで浮かびあがってきた最初の笑みだった。その九個の音は鼓動にへばりつき、脈うっていた。そう、斥候だ、斥候は奴らの企ての紆余曲折を徹底的に追求し、身の破滅をかけてでも、黒い百万の紐すべてを引きちぎって夜を巻きほどく呪わしい糸巻きを止めるだろう。「たしか、ドイツの博学の士だかが『昼の光に夜の闇の深さがわかるものか』と言ってたな。あの方に、こう言ってさしあげたいな──昼にはわかるようになりますよ。棺の中に真っ逆さまに落ちていかなくても、われわれは夜の底まで測れるようになりますよとね。ぼくが昼のスパイでなければ!」
 そのとき突然、クヴァンティンの脳裏をよぎったのは──ここ、夜の無明の街で──陽光にあふれた昼の世界だった。風がそよぐ野原は、黄金の穂を生やした太陽に向かって鍍金された光を伸ばしている。荷馬車の輻のまわりに灰青色の埃が踊っている。広場で混じりあう屋根と服の色彩は、巨大なパレットさながらだ。ほほにさした赤み、揺れる人だかりの上に掲げられたスローガンの赤いのぼり。それから目、人の目だ、虹彩が輪になっている……太陽に向かって、目尻に寄ったしわから快活に細められている……こっちには……。クヴァンティンは喉まわりに痙攣の発作を感じて拳を握りしめた。
 フクロウとコウモリを目覚めさせた暗闇が、動きのない夢の街をかき乱していた。さっきまで墓場を抜ける小道のようだった、死に絶えていた通りは、今や活気づく気配で満ちていた。ブラインドは引きあげられ、窓は黒い穴をさらしていた。その開けはなされた窓枠のどこか向こうで、濁り、腐った光がくすぶっていた。扉は飛びたとうとする夜の鳥の翼のように開けはなたれ、急ぐ人々のシルエットを通りに投げかけていた。
 明らかに夜の喧噪の時間が近づいていた──幻の調達係、悪夢製造係、幻像の発送係たちが職場に急いでいた。その無言の、背を丸めたシルエットが、門の隙間に潜りこんだり、地下に潜りこんでいる階段を降りて地下室に消えたりした。門のひとつは開いたままになっていた。その門扉から出入りするものはいなかった。クヴァンティンは門番がいないかたしかめると頭を突っこんでみた。長く伸びた中庭にそって、井戸の丸穴が列になって伸びていた。その開口部は円錐状の重々しい防壁によって塞がれており、遠目には巨大なインク瓶の蓋を思い起こさせたことだろう。井戸のうちひとつのまわりでは、地面にかがみこんだり、起きあがって体を伸ばしたりする人影が蠢いていた。彼らの肩に押されて円錐はゆっくりと回転し、悪夢の井戸のふさがれた喉を用心深く解放していった。あと一回転で……そのとき背後に足音が聞こえた。クヴァンティンは急いで通りの反対側にわたると、なるべく陰になった場所を探しながら歩みを続けた。なかば地下室に埋もれるようにはめこまれた窓のそばを通りがかった。そこはほかよりも明るい灯がともっていた。窓格子から、地面に押しつぶされたかのような、かそけき調べが聞こえてきた。体をのりだしてのぞきこむと、窓辺から歩道にひたひたと這いだしている、なにかの植物が描いている螺旋と、空気に長めの針目でメロディーを縫いつけている楽器の弦がちらちら見えた。彼は出だしの運弓だけですぐ思いだした──それは、横町の側肋(リブ)で失われ発見された、宙を伝う電線の歌だった。

 死ぬことは眠ること──つまりは「詩人に権力を」

 クヴァンティンは壁に肩をもたせかけて聴きいった。彼には自分が感じているものがなんなのかわからなかった── 哀切か、ただの疲労か。突然、垂らした手のひらになにかがそっと触れてきた。手を離した。すると、ふたたびかすかな触感が。クヴァンティンは窓をのぞきこんだ。こちらの手に、和毛の生えたつるを伸ばしていたツタの螺旋は、おずおずとひかえめに喚起していた──言葉なしに、言葉なしに、言葉なしに。
 クヴァンティンは通りを見わたした。遠方に巨大なアーチがかかっていた。彼はそれを目指して進んでいった。
 梁のアーチの向こうに輝く灯の鎖の行進と、抑えめだが、息の長い警笛が先触れだった。駅だ。クヴァンティンは注意を引き締めた。ようやく着いた。今、彼は夢を搬送する貨物用タラップを目にしようとしている。悪夢の積みこみに、夜で梱包したイメージの輸送──眼前に幻像を輸出するために必要な技術のすべてがあるのだ。
 少したつと、アーチのきゃしゃな骨組みが頭上にただよい、少し前傾した床は鏡のような照りかえしを見せるようになっていた。そこに交差する大梁、やたらと周囲を動きまわる肘と背中の空騒ぎ、星々の青白い点が写りこんでいた。足を滑らさないように、引きこもうとする勾配の力にあらがいながら、クヴァンティンはおっかなびっくり踏みだしていった。突然、前方に伸ばした手がなにかにぶつかった……空気だ。そう、空気だ。姿形すらさだまらない虚無のくせに、押しても押しかえし、前進を許さなかった。
「気をつけて」灰色の作業服を着た男の手が、クヴァンティンの手に重ねられた。「ちょっと。おれたちの人生の目的をぜんぶだめにするつもりなのかい。すべての点で最高品質が目的の商品なんだ。ラベル(エチケット)は倫理(エチカ)なんだ。それを、砂袋のように蹴っ飛ばすなんて」
「そうだ」背後の声は同意した。「通むけの商品だ。みなが目的に適うだけの金があるわけじゃない」
 厳格な、力強い手に制されて、クヴァンティンは圧縮された空虚の包みをよけて歩いた。手がかりを探しだそうとした目が、陰気な低い戸口の上に貼りだされた文字に釘づけになった。

   不可視化オフィス

 もろもろの出来事から、クヴァンティンには察しがついた。夢はおとぎ話の盗賊団のように目と入れ違いになるようにして見えずに額の下にこっそりもぐりこむ──そしてそこでだけ、頭蓋骨の裏側でだけ安全に、脳の上で体を伸ばして、不可視性を脱ぎ捨てることができるのだ。
 実際、駅の梁の巨大なアーチの下では、つっぱった肘やいからせた肩、丸まった背中の列以外にはなにも見えなかった──みな、空気に押されながらも、空気を空気にねじこもうとしている。このあまりに奇妙な光景のせいで、思考が駅のライトから劇場のフットライトにそれた──だが視線を下に向けたクヴァンティンは、悲鳴をこらえるのが難しかった。床のなめらかな鏡面が、何万という、この世のものとは思えないほど奇妙な影、反射、火花の弾幕をクヴァンティンの瞳に浴びせかけてきたからだ。明らかに、「不可視化オフィス」は、商品を見えなくするよう、反射する性質を持った光学的な梱包のようなものを商品にほどこしていた。クヴァンティンはあたりをとりまく極彩色の奔流から目をそらそうと、驚きを押し殺してさらに下方を凝視する必要に迫られた。最初、かろうじてわかる程度だったガラスの傾斜──足を急がせる銀のスロープ──は、どんどん急になっていた。雪の斜面を滑るスキーさながら、足の裏は並足から疾走に、疾走から滑走になっていった。つかまるものはなにもない。下には──反射の奔流があり、周囲には空気と夢しかない。もはや作業服もほとんど目に入ってこない。極彩色の濁流は加速していった。知らぬ間にクヴァンティンは駅から出てしまっていた。空っぽの空間に目を凝らして、やっとのことで前方に人影を見つけた。その人影はこちらに向かって、ときおり両手をつき、苦しげに左足を引きずりながら、勾配を登ってくる。クヴァンティンは上から飛びかかって、健康なほうの足をほとんどたたき落とさんばかりにして、びっこの男の肩をつかんだ。
「ああ、お前など太陽でも見やがれ!」男は悪態をついて、驚きがにじんだ、作業服と同じ灰色の顔をあげた。「右の吸盤が地獄に落っこちたぞ! おまけにお前が来るなんて。太陽で目がやられちまえばいい。はなすんだ」
 肘での一撃をくらったものの、クヴァンティンは労働者のだらりと垂れさがった足をなんとかつかまえた。そして彼は見た。灰色の作業服を着た男の右くるぶしの下、足の裏全体が釣り鐘状にふくれあがって中空になっている。まるで、ばねじかけのピストルが撃ちだすゴムの矢じりのようだ。斜面に空虚な、真空の吸盤でへばりついた足首一本が、恐怖で結びつけられた二つの体をかろうじて支えていた。
「はなせ」労働者はふりほどこうと力をこめた。だが、クヴァンティンの指は垂れさがった足をはいあがろうとしていた。クヴァンティンは灰色の作業着の端をなんとかつかんでいたのだが、眉間に一撃が振りおろされた。指は開き、身体は落下した。
 もはや希望は断たれた。クヴァンティンは加速しながら滑り落ちていった。彼の下では──鏡のような斜面を──極彩色の反射の群れが飛びさっていった。あまりの速度に、もはや鏡像の形を見わけられないほどだった。目もくらむ残像の渦は彼もろとも虚無へと崩れ落ちていった。彼は叫び声をあげたかったが、猛烈な速度で押し寄せてくる向かい風で口は塞がれていた。何度か、彼は赤熱する銀の勾配に写りこんだ、ばらばらになって飛びさっていく自分の影を認めたが、それも刹那的なものでしかなかった。なにか目に見えない包みが、頭頂部にぶつかった。落ちていく、落ちていく。突如、前方に──銀の瀑布をさえぎる、堤防のようにどっしりした石塊とでもいうべき壁が、滝壺に落ちた無力な木っ端のように疾走する彼の体に向かって、すばやく接近してきた。一瞬、彼は石にたたき割られた頭と飛び散る脳髄を想像した。壁が縦横に広がり、衝突へと音もなく迫ってきた。見ないほうがましだ。まぶたをぎゅっと閉じて……。だが、ナイフの刃のように鋭く、光を放つものが、かたい蓋の下に差しこまれるようにしてまぶたをこじ開けてきた。彼は根負けしてまぶたを引き離した──すると目もくらむばかりの陽光が瞳に飛びこんできた。
 まさに目前一メートルのところに車両の黄色い壁面があり、頭上には金具で補強された棚があった。クヴァンティンは頭を座席からおこして、目を細め、あたりを見まわした。列車は停止していた。通路には──荷物に押しつぶされたポーターの背中があり、埃臭い窓の外には──モスクワ駅の見慣れたガラスの天蓋があった。片手を座席について体をおこし、クヴァンティンは一日に参加するのをためらっていた。
 時間だ。彼は座席から両脚をおろし、手を書類鞄に伸ばした。あれ! 手のひらは床木にあたっただけだった──書類鞄は枕元にも、壁際にもなかった。同時に、記憶によぎったのは─薄暗い聴講席、青白い灯り、はげ頭の男が伸ばした腕──それに向かって落下していく黒くて四角い書類鞄。あとは──回転木馬がまた一回転──さらにもう一回、もう一回──回りきった夜のイメージ。
「持ちましょうか?」
 クヴァンティンは身震いして、顔を上げた。前掛けと記章の上に、そばかすと汗つぶにまみれた陽気な顔があった。
「ほら、書類鞄が逃げだしてますよ。あそこまで吹っ飛んだんでしょう」──ポーターはかがみこむと、ベンチの脚の奥に隠れていた書類鞄を引っぱりだして、前掛けで埃をぬぐった。「もっと重いものはありませんか? 持ちましょう」
「ありがとう」クヴァンティンは呟いた。「自分で持つよ」彼は膝に書類鞄をのせたまましばらく座っていた。ポーターの後ろ姿は架板の仕切りの向こうに隠れてしまった。客車はからっぽになっていった。外では、動かない列車の車輪から車輪へと飛び跳ねながら、ハンマーがこつこつやさしく叩いてまわる音がさまよっていた。クヴァンティンは片手を鞄におろしてそっと押してみた──指の隙間から空気が漏れた。それだけだった。彼はおもむろに立ちあがるとドアに向かった。列車のタラップから、つぶれた角でだるそうに転がりながら、ロープでくくられた鈍重な遅延貨物がゆっくり這いだしてきた。「とにかく、」クヴァンティンは思った。「明るいカードを黒いカードに、昼を夜に変える唯一の技術的な可能性は──迅速にやることだ、『瞬く間』よりも早い瞬間に」

                      一九二七―一九二八年

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秋草俊一郎さんが2021年9月に訳出された『私の人生の本』は、『ノーホエア・マン』などが日本でも翻訳紹介されて話題になった旧ユーゴ出身の作家アレクサンダル・ヘモンによるエッセイ集です。こちらもどうぞご覧ください。


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