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クヴァドラトゥリン

 2012年に刊行した、シギズムンド・クルジジャノフスキイというウクライナ出身の作家の作品集『瞳孔の中』から、短編「クヴァドラトゥリン」を公開いたします。翻訳は秋草俊一郎さんです。
 秋草さんには、2013年に同じくクルジジャノフスキイの『未来の回想』を訳していただいています(「訳者あとがき」を公開しています。そちらもどうぞご覧ください)。

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クヴァドラトゥリン

シギズムンド・クルジジャノフスキイ 作
秋草俊一郎 訳


1

 外からそっとドアをたたく音がした。コツン、とまず一度。間。そして再び──すこし大きめにゴツンと、二度目。
 ストゥリンはベッドから身を起こさずに、慣れたしぐさで足をノックがした方に伸ばすとノブにつま先をかけて引っぱった。思い切りよくドアが開いた。戸口に立っていたのは、頭がほとんどドア枠に触れるほど上背がある、窓に滲む夕暮のような薄墨色をした男だった。
 ストゥリンが足をベッドからおろすより先に、客は室内に歩を進め、さっとドアをドア枠に戻すと、猿のような長い腕にぶらさげた書類鞄で、まず右側、次いでもう一方の壁を突いた。
「まさにマッチ箱ですな」
「なんだって?」
「この部屋ですよ。マッチ箱。ここの広さは?」
「八平方アルシン〔約四平方メートル〕とすこしかな 」
「それです。ちょっといいですか?」
 ストゥリンが口を開く間もなく、客はベッドの端に腰かけ、ぱんぱんにふくらんだ書類鞄の留め金をさっと外した。そしてほとんどささやくように声を潜めて続けた。
「耳よりな話がございまして。私が、つまり私どもが手がけております、まあいわば、実験ですね。今はまだ内々の話なんですが。外国の有名企業もかかわってましてね。電気のスイッチを入れたい? いや、それにはおよびません。すぐ済みますから。つまりですね、発見されたんですよ──この発見はまだ秘密なんですが──部屋を拡張する薬が。はい、これがそうなんですが」
 見知らぬ男の手は書類鞄から引き抜かれると、ストゥリンにくすんだ色合いの細長いチューブを差しだしていた。普通の、絵の具のチューブのようだったが、キャップが厳重に締められ、鉛で封がされていた。ストゥリンは途方に暮れて、つるつるしたチューブを指の中でひねくりまわしていたが、部屋はほとんど真っ暗だったのに、ラベルにくっきり印字された文字は判読できた。「クヴァドラトゥリン」。目線をあげると、まばたきもせずじっと見つめる相手の視線にぶつかった。
「どうですか。いくらかって? とんでもない。無料ですよ(グラティス)。宣伝ですね。ただし、この」
 客は同じ書類鞄から帳面を引き出し、ぺらぺらとめくった。「感謝帳にサインだけもらいましょうか(まあ、簡単な謝意の表明みたいなもんです)。鉛筆? はい鉛筆。どこかって? ここです。Ⅲの欄。これでよし」
 サイン帳をパタンと閉じると、客は姿勢を正し、くるりと背を向けてドアに歩み寄った──しばらくしてストゥリンはスイッチを入れ、くっきりと浮かびあがった「クヴァドラトゥリン」という文字を、眉を上げ半信半疑でしげしげ眺めた。
 注意深く観察してみると、その亜鉛のパッケージは(よくメーカーが特許物にするように)半透明の薄紙にぴったりくるまれ、紙の端と端はたくみに張り合わせてあった。ストゥリンはクヴァドラトゥリンの紙の覆いをとると、半透明のつやの向こうからのぞいていた、チューブにそって丸まった文章を広げて読みはじめた。

使用法
小さじ一杯のクヴァドラトゥリンエキスを、コップ一杯の水に溶かします。脱脂綿か、または清潔な布に溶液をしみこませます。拡張を予定している部屋の内壁に塗ってください。成分がしみになることはなく、壁紙を損なうこともありません。加えて、南京虫を駆除する作用もあります。

 これを読むまで、ストゥリンは疑っていた。今、疑念は別の気持ちに──ざわつくような、かきたてられるような感覚に変わろうとしていた。立ちあがって檻のような部屋の隅から隅へと歩こうとしてみたが、あまりに距離が短すぎた。部屋の散歩はほとんどターンの連続みたいなものだった。つま先から踵、今度はその逆を繰り返し。そしてストゥリンはくるっとふり返り、座って目を閉じ、想念に身をゆだねた。こんな具合に始まるような──なんだ……? もし……? 突然……?──左手側、耳から一アルシンの距離で、だれかが壁に鉄くぎを打ちこんでいる。しょっちゅう釘からそれてがんがん音をたてるその金槌は、まるでストゥリンの頭をめがけて打ちこまれているようだった。こめかみを両手で押さえつけて目を開けた。黒いチューブが、壁と窓枠とベッドの合間にやっとのことでおさまっている小机の真ん中に置かれている。ストゥリンが鉛封を破ると、チューブの蓋がねじのように回って落ちた。鼻をつく、わずかに苦みさえ感じさせるような刺激臭が、開いた丸い穴から漂ってきた。匂いは快く鼻孔を刺激した。
「うん、うん、ためしてみるか。なにはともあれ」
 上着を脱いで、クヴァドラトゥリンの持ち主は実験にとりかかった。椅子はドアに寄せ、ベッドは部屋の真ん中に。ベッドの上に机をのせた。ほんのり黄を帯びて光っている透明な液体を受け皿に入れて床に置き、それをうしろから押すようにして這っていきながら、鉛筆に巻きつけたハンカチをクヴァドラトゥリンにひたしては、床板と壁紙の模様にそって丁寧に塗っていった。今日言われたように、部屋はマッチ箱そのものだ。だがストゥリンはゆっくり几帳面に仕事し、隅っこも塗り残しがないようにした。これはかなり骨だった。というのも、液体は実際すぐに気化するか、しみこんでしまうかしたから(そのどちらなのかは判別できなかった)。塗った跡にはなにも残らなかった。鼻をつく刺激臭だけが残って一層強まり、頭をくらくらさせ、指をもつれさせ、床についた膝をわななかせた。床板と壁の低い部分が終わったとき、ストゥリンは奇妙に萎えて重くなった足をあげ、立って作業を続けた。ときたまエキスをつぎ足さなくてはならなかった。チューブは少しずつ空になっていった。窓の外はもう夜だ。右側の共用台所ではかんぬきがかけられる音がした。アパートは眠りに備えはじめた。音をたてないように留意して、残ったエキスを手にした実験者は、ベッドにそろそろとのぼると、そこからグラグラする机に足をかけ……。クヴァドラトゥリン化しなくてはいけない残りは天井だけだ。だが、その時壁が拳でたたかれた。
「そこでなにしてるんだ。みんなもう寝てるぞ……」
 音がしたほうをふり返ろうとして、ストゥリンはへまをした。つるつるしたチューブは手から飛びだして落下した。すっかり乾いてしまったブラシをもって、ストゥリンは用心深くバランスをとりつつ床に降りた。だが、すでに遅かった。落っこちたチューブは空っぽで、そのまわりにはあっという間にひからびていくしみが、くらくらするような香りを放っていた。疲れはてて壁に手をつきながらも(左ではふたたび不満げに寝返りをうつ気配がした)、彼は最後の力をふりしぼって物を元の場所に戻し、服を着たままベッドに倒れこんだ。黒い眠りがすぐに彼の上に覆い被さってきた──チューブも人間も空っぽだ。

2

 二つの声がひそひそ話を始めた。それから音量が次第にピアノからメゾフォルテに、メゾフォルテからフォルテに、そしてフォルティッシモになって──ストゥリンの眠りをやぶった。
「お話にもなりゃしない。あの住人をスカートのなかから追いだすのに……。大声でわめけってのかい!?」
「ごみじゃあるまいしそう捨てらんないわよ」
「知ったこっちゃない。ちゃんとこう言っておいたじゃないか。犬も、猫も、ひももだめだって」──このあと、ストゥリンをとうとう眠りからたたきだしたものすごいフォルティッシシモが続いたのだった。まぶたは疲労でぴたりと縫い合わされて開かない。慣れたしぐさで手を伸ばす──時計が置いてある机の端へと。始まりはこんな具合だった──しばらくの間、腕を伸ばしていたが、空気をまさぐるだけ。時計も机もない。ストゥリンは即座に目を開けた。そしてすぐベッドに体を起こすと、茫然として部屋を眺めた。いつもはここ、枕元にある机は、部屋の真ん中に移動していた──だだっぴろいが、不格好で、見覚えがない部屋の真ん中へと。
 物はみな元のままだった。机を追ってこちら側に這いだしてきた、使い古しの丈の短いカーペット、写真、背もたれのない椅子、壁紙の黄色い模様──だが、どれもみな妙にまのびした立方体の部屋の中に、慣れない様子で散らばっていた。
 クヴァドラトゥリン──ストゥリンは思いいたった──これがその力か。
 すぐに、新しい空間に家具を合わせてみた。だが、どこかしっくりこない。丈の足りないカーペットをベッドの脚の側に寄せてみたが、ぼろぼろの床板がむきだしになってしまう。机と椅子をいつもどおり枕元に寄せると、蜘蛛の巣がはった、がらんとした部屋の隅が空いて、いろいろとぼろがあらわになってしまっていた──以前はせまい部屋の隅と机の影になっていたおかげで上手く隠れていたのに。ストゥリンは勝ち誇った、だがいささかおびえた笑みを浮かべて自分の新しい、ほとんど平方された平積(クヴァドラトゥーラ)の細部を入念にチェックしたのだが、部屋が均等に広がっていないことに気づいて不満を覚えた。出隅は角度が鈍くなり、壁が斜めに傾いでいた。つまり、入隅ではクヴァドラトゥリンの働きが見るからに弱くなっていたのだ。あれだけストゥリンが入念に塗布したのに、実験はいくぶん不均一な結果に終わった。
 アパートがじょじょに目覚めだした。ドアの側を住人が行ったり来たりしている。共有洗面所のドアがばたんばたんと音をたてている。ストゥリンは部屋の入り口に近づいて鍵を右に回した。それから、手を後ろ手に組んで端から端まで歩いてみることにした。悪くない。喜びで思わず笑みがこぼれた。ついにやったぞ。だが、すぐこう考えた。左右、後方の壁越しに、足音が聞こえるかもしれない。一時、身じろぎをやめて立ちすくむと、さっとかがみこんだ──突然こめかみで、夕べ味わった鋭い刺すような痛みがかすかにうずきだしたのだ。編み上げ靴を脱ぎ、靴下だけになると、音をたてずに歩いて散歩の悦楽に没頭した。
「入ってもいい?」
 女家主の声がした。ドアに近づいて鍵に手をかけようとしたが、すぐに思いなおした。開けてはだめだ。
「着替え中です。ちょっと待ってください。すぐ出ます」
『いまのところうまくいってる。だが面倒だな。鍵をかけて持ち歩くことにしよう。だけど鍵穴はどうする? 窓もあるしな。カーテンが必要だ。今日のうちに──』こめかみの痛みはさらに鋭く、しつこくまとわりついていた。ストゥリンは急いで書類をかき集めた。仕事の時間だ。服を着て、頭痛を帽子に押しこんだ。ドアのそばで聞き耳をたてた。誰もいないみたいだ。さっと開けて、さっと出た。すぐ鍵をかけた。よし。
 女家主は玄関で辛抱強く待っていた。
「あの女のことで話をしたいんだがね。名前がでてこないけど。あの女が申し込みを住宅管理委員に出したってさ……」
「聞いてますよ。続けてください……」
「あなたには関係ない話だけどね。八平方アルシンじゃ減らしようがない。だけど、あたしの身にもなってみて……」
「急いでるので」──目深にかぶった帽子でうなずき、階段を下りた。

3

 仕事の帰り道、ストゥリンは家具屋のショーウィンドーの前で立ち止まった。ソファーが描くゆったりとした曲線、繰り出し式の丸テーブル。すばらしいだろうな。だけど、どうやって視線と質問をかいくぐって持ち帰ればいいんだろう──みんなあれこれ勘ぐるだろう、勘ぐらずにはいられない……。
 カナリア色の生地を一メートル分買うにとどめなくてはならなかった(とにかくカーテンだ)。食堂には寄らなかった。食欲は消え失せていた。急いで部屋にもどらなくては──そのほうが気が楽だ。急がずじっくり考えて、周囲を見回して、あれこれ調整してみよう。部屋のドアに鍵を差しこんだまま、ストゥリンはだれか見ていないかあたりを見回した。誰ものぞいていない。部屋に入る。明かりをつけた彼は、長いこと立ちすくんでしまった。両手を壁に伸ばしてはみたが、心臓は激しく脈打っていた。こんなのはけっして予想しなかったぞ。
 クヴァドラトゥリンは作用し続けていた。主人が外出していた八、九時間の間に、四方の壁はゆうに一サージェン〔約二・一メートル〕は伸びていた。一歩踏みいれたとたん、目に見えないつっかえ棒で伸ばしたような床板が、オルガンのパイプのような音をたてた。伸びて不自然にゆがめられた部屋全体が、ストゥリンを脅かし、苦しめ始めていた。上着も脱がずにストゥリンは椅子に腰かけ、広々とはしているが、押しつぶされ棺桶状になった、居住用の箱とでもいうべきものを眺めながら、どうして望まぬ結果になったのか理解しようとした。思い出したのは、天井は塗らなかったことだった。エキスが足りなかったのだ。箱型住居は横と縦に伸びただけで、上方向には一インチたりとも伸びなかったのだ。
『こいつめ、止まるんだ。このクヴァドラトゥリンのやつを止めないと。でないとおれは……』こめかみを手のひらで押しつけてみた──すると、今朝から頭蓋の裏側に入りこんだ蝕むような痛みが、ガリガリと執拗にドリルを回す音が聞こえてきた。向かいの家の窓明かりは消えていたが、ストゥリンは黄色のカーテンで部屋を隠した。頭の痛みは一向におさまらない。静かに服を脱ぐと、明かりを落として横になった。はじめは短い眠りが訪れたが、その後でなにか、不快な感覚に起こされた。布団にぴったりとくるまりもう一度眠りに落ちたが、またあの不快なよるべなさが眠りをさまたげた。片手をついて体を起こすと、自由な手で周囲を調べた。壁がない。マッチを擦った。ううむ。火を吹き消した。肘がきしむほど強く両手でひざをかかえこんだ。『まだ大きくなってる。くそっ、まだ大きくなってる』歯を食いしばってストゥリンはベッドから這いだすと、物音をたてぬよう、用心深く、はじめは前方の、次いで後方のベッドの脚を遠ざかっていく壁に引きよせた。軽い悪寒。これ以上火をつけるのはやめて、くるまって暖をとろうとフックにかけたコートをとりに隅に行った。だが、昨日あった壁の位置にはフックはなく、手が毛皮に触れるまで数秒のあいだ壁を探らなくてはならなかった。こめかみの痛みのようにだらだらとまとわりついてくる長い夜の間、さらに二度、ストゥリンは壁に頭と膝を押し当てて眠りに落ち、そして目を覚ますと、ふたたびベッドの脚を動かした。この作業を機械的に、たんたんと、生気なく繰り返しながら、まだ周囲は暗いのに、必死で目を閉じまいとした。このほうがまだましだ。

4

 次の夕暮れ時が近づき、その日の仕事を終えたストゥリンは自室のドアに歩みよって、足どりも早めずに踏みこんだが、もう驚きも恐怖も感じなかった。低く長い天井のどこか遠くに、一六燭光のぼんやりした明かりがかすかにともったが、黄色い光は、巨大で生気がない、虚ろなあばら屋──このあいだクヴァドラトゥリンを塗るまではたしかに狭かったが、あんなに住み心地がよく、こぢんまりして温かかったわが家──の、ばらばらに遠ざかっていく隅までは届かなかった。遠近法に則して縮まった窓の黄色い四角形に向かっておとなしく歩いて、歩数を数えようとした。そこから──窓ぎわの隅に哀れにももぐりこんだ臆病なベッドから、疲れきってぼんやりと部屋を眺めたが、抉りこむような痛みを覚えながら、床板にはりついた影のゆらぎと、低くなめらかに垂れさがった天井を見た。『チューブからしぼり出したやつが、平方(クヴァドラート)しているんだ。平方の平方。平方の平方の平方。なんとかしてうまい策で出し抜かないと。出し抜けなければ、あっちがこちらを抜きさってますます育って……』そして、突然ドアがどんどんとたたかれた。
「ストゥリンさん、いますか?」
 同じく遠方から、低く、かろうじて聞きとれる女家主の声が響いた。
「いますよ。寝てるんでしょう」
 全身から汗が噴きだしてきた。『間に合わなかったら──やつらが先に……』そして、音をたてないように注意して(自分が眠っていると思わせなくては)、暗がりの中、長い時間をかけてドアに歩みよっていった。やっと着いた。
「だれですか?」
「開けてください。なんだって鍵をかけてるんです? 再測量委員会ですよ。測り直したら出ていきますから」
 ストゥリンはドアに耳を押し当てて立っていた。薄い板一枚隔てて、重いブーツがどたどたと踏みならされた。なにかの数字と部屋の番号が呼ばれた。
「次はここだ。開けてください」
 片手でストゥリンは電気のプラグの頭をつかみ、鶏の頭をひねるようにしてなんとかよじきろうとした。プラグの頭はバチッと光ってはずれると、力なく回転してぶら下がった。再度、ドアを拳でたたく音。
「ほら、早く」
 ついにストゥリンは鍵を左にひねった。ドア枠に黒くがっしりした人影が戸口から進みでた。
「明かりをつけてください」
「きれてしまってるんです」
 左手でドアノブをつかみ、右手で電気のコードをつかんで、ストゥリンは背後のあとずさっていく空間を覆い隠そうとした。黒い人影が一歩下がった。
「マッチを持ってないか? その箱をこっちに。やっぱり見てみよう。きまりだから」
 突然、女家主が不満の声をあげて泣きだした。
「その部屋のなにを見るっていうのよ。八平方アルシンを八回ずつチェックしてさ。何度測ったって増えやしないよ。その人はおとなしい人で、仕事帰りで横になってたんだから。休ませもしないってのかい。測って測って測り直してさ。それにひきかえ、居住する権利すらない人間もいるってのに……」
「まったくだ」黒い人影たちはぶつぶつ言い、片方のブーツからもう片方へと体を揺らし、そっと、ほとんどなでるような動作でドアを明るい方に引いていった。一人残されたストゥリンは、綿のように疲れてふらつく足で、毎秒ごとに四方に広がり、育ちつづける四角い闇のただ中に立ちつくしていた。

5

 足音が静まるのを待って、ストゥリンはすばやく上着をはおって外に出た。測り直しや測り忘れ、なんやかやで奴らがまた来るかもしれない。交差点から交差点へと歩を進めながらのほうが、まだなにか考えがうかぶだろう。夜が近づくにつれ風が強まった。風は木々の、凍える裸の枝たちをぶるぶる震わせ、影たちをよろめかせ、電線をぶんぶん揺らし、たたき壊そうとするかのように壁をうった。なぐりつける風から、こめかみの鋭くなっていく痛みを隠して、ストゥリンは影に潜りこんだり、街灯の光に体を浸したりしながら歩いた。突然なにかが、荒々しくうちつける風をくぐり抜けて、肘にそっと、やさしく触れてきた。ふり向いた。黒い帽子のへりをぱたぱたとうつ羽の下から、誘うように目を細めている、見知った顔。うなりをあげる空気のなかで、声がかろうじて届いた。
「私だってわかってたくせに。どこを見てるのよ? 会釈ぐらいしなさいよ。ほら」
 風でのけぞりつつも、女の軽い身体は、くいこむような尖った踵で立ち、全身で不服従と戦闘の意を示していた。
 ストゥリンは帽子のひさしを下にかたむけた。
「どこかに行ってしまうはずだったんじゃなくて。それともまだここにいるつもり? ということは、なにか具合が悪いことでも……」
「そう。まさに、そうだ」
 スェードの指がこちらの胸に触れるのを感じたが、すぐにマフのなかに引っこんだ。帽子の踊るような黒い羽の下に、細められた瞳を探りあてた。もう一目この女を見れば、もう一度触れたり触れられたりすれば、焼けつくようなこめかみにもう一撃もらえば、考えも吹っ切れて、風に吹かれてなくなってしまうだろう。一方、女は顔を寄せ、こう口にした。
「あなたのところに行きましょう。この前みたいにさ。覚えてるでしょ?」
 すぐさま、すべてが台無しになった。
「うちはだめだ」
 女は男が引っこめた腕を探りだすと、スェードの指をからませてきた。
「うちは……よくないんだ」──彼はふたたび手を引っこめ、目をそらしてそっぽを向いてうなだれた。
「せまいって言いたいんでしょ。そんなのおかしいわ。せまければせまいほど……」
 風が言葉じりをさえぎった。ストゥリンは答えなかった。「それとももしかして……ないのかしら……」
 角までたどりついて、ふり返ってみた。女は立ち続けていた。盾のようにマフを胸のところで握りしめ、薄い肩は寒さで震えている。風はスカートを破廉恥にもはためかせ、コートの裾をまくりあげていた。『明日だ。全部明日にしよう。だけど今は……』ストゥリンはきっぱりと背を向け足どりを速めた。
『みんな寝ている今のうちだ。どうしても必要なものだけ持って出て行こう。逃げるんだ。ドアを開けはなして、あとのことはまかせよう。なんでおれだけが? まかせよう」
 実際、アパートはまどろみ、薄暗くなっていた。廊下をまっすぐいって右に折れ、ストゥリンは決然とドアを開け、いつものように入り口にあるスイッチをまわそうとしたが、指の間でそれは力なく空回りして、電気をきったことを思い出させた。いまいましい障害だ。どうしようもない。ポケットをまさぐって、マッチ箱をさぐりだした。中身はほとんどない──つまり、三、四回あたりを照らしておしまい。明かりと時間を節約しなくては。ハンガーの所に行き、最初のマッチをすった。明かりが黄色い半径を伸ばして黒い虚空を這いひろがった。誘惑にうち勝ちながらストゥリンは、照らしだされた壁の断片とフックに掛かった上着と軍服に意識を集中させた。自分の背後には、薄暗い隅を四方にどんどん広げていくクヴァドラトゥリンを塗られた死の空間があることはわかっていた。わかっていたので見なかった。左手でマッチがくすぶるなか、右手でフックから服をむしりとり、床にほうり投げた。もう一本マッチが要る。床を見ながら部屋の角に向かう。もしそれがまだ角と呼べるようなもので、まだそこにあるとすればの話だが──彼の計算では、そちらにベッドが引っぱり出されているはずだった。だが、うっかり火に息がかかってしまった──ふたたび、黒い砂漠が隙間なく閉じあわされた。残ったのは最後の一本だけ。彼はそれを一、二度すってみた。火はつかなかった。もう一度──すられたマッチの頭が、ポキリともげて指をすべり抜けてしまった。ふり返って、これ以上奥に入りこむのが怖くなり、フックの下に投げた服のかたまりの方に動いてみた。だが方向転換は不正確だったようだ。指先を前方に伸ばして、彼は歩いた──一足、また一足。一足、また一足。だが、なにも見つけられなかった。服も、フックも、壁もなにも。『もう着くはずだ。着かなきゃおかしい』全身に寒気と汗がじっとりはりついていた。足が妙な具合にたわんできた。ひざを落とし、手のひらを床についた。『帰らなければよかった。正直、一人ではもう無理だ』突然、ある考えが襲ってきた。『こうしてるあいだもどんどん広がっていくんだ。こうしてるあいだにも……』

 市民ストゥリンの八平方アルシンに隣接する平積(クヴァドラトゥーラ)の住人たちには、その叫び声の音色と抑揚がなにを意味するのか、恐怖と眠気が入り交じった状態では判然としなかった──自分たちを真夜中にたたき起こし、部屋の入口まで詰めかけさせたその声の意味が。砂漠で迷って死につつある男が、寂寥とした空間で叫んだところで、時すでに遅く無駄なことだった。だが、もし──意味などなかったとしても──彼が叫んだとしたら、それはおそらく、こうだったろう。

                           一九二六年

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秋草俊一郎さんが2021年9月に訳出された『私の人生の本』は、『ノーホエア・マン』などが日本でも翻訳紹介されて話題になった旧ユーゴ出身の作家アレクサンダル・ヘモンによるエッセイ集です。こちらもどうぞご覧ください。


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