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「ドルグショフの死」──バーベリ『騎兵隊』より

 1920年代のロシア文学界で一世を風靡したユダヤ系作家イサーク・バーベリ。その代表作のひとつ『騎兵隊』日本語版を、2022年1月に中村唯史さんの訳で刊行いたしました(この本は以前、木村彰一さんの訳で中公文庫から出ていましたが、今回は中村さんによる新訳版です)。そこに収録されている短編のひとつ「ドルグショフの死」を公開いたします。

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ドルグショフの死

イサーク・バーベリ著/中村唯史訳


 戦闘のとばりは、街へと向かっていた。正午ごろ、黒い袖無外套をまとったコロチャーエフがそばをよぎった。恩寵を失い、ひとりで戦っては死に場所を求めている第四師団長である。駆け抜けざま、私に向かって叫んだ。
 「我々の連絡網は寸断されている。ラジヴィロフとブロディは今、火の海だぞ!」
 そして飛び去った──全身の黒衣をはためかせ、黒い瞳を光らせながら。
 木板のように滑らかな平原に旅団が展開していた。太陽が赤紫色の塵埃の中を転がっていく。負傷者たちは溝に入って食事し、看護婦たちは草の上に寝ころび、小声で歌っていた。アフォニカが放った斥候兵が、死者とその軍装品を探し出そうと、平原じゅうを走り回っている。アフォニカが私から二歩のところを駆け抜け、顔をこちらに向けることなく、こう言った。
 「俺たちは平手打ちを食らった。火を見るよりも明らかなことさ。師団長が更迭されるって噂が流れ、兵士たちは動揺している……」
 ポーランド軍が私たちから三露里ほどの森に近づいた。どこか近くに機関銃が据えられたようで、銃弾が哀れな金属音を響かせたが、その愁訴が耐えがたいまでに高まってきた。銃弾は地表を穿ち、焦燥に震えながら大地に突き刺さる。日なたでいびきをかいていた連隊長のヴィチャガイチェンコが夢の中で叫んで目を覚まし、馬にまたがると中隊長の方へ駆けだした。そのしわくちゃの顔は不快な夢のせいで赤らみ、まだらになっていたが、ポケットはスモモの実ではち切れんばかりだった。
 「クソったれが」と腹立たし気に言うと、口から種を吐き出した。「実際、嫌な渡世だぜ。チモーシカ、旗を下ろせ!」
 「出撃ですか?」チモーシカは鐙から旗竿を抜きながら尋ね、第三インターナショナルに関する言葉と星が描き込まれている旗を巻いた。
 「あちらの状況を見に行くのさ」とヴィチャガイチェンコは言ってから、突然荒々しく叫んだ。「女ども、いちゃいちゃしている場合じゃないぞ、馬に乗れ! 隊長ども、部下を招集せよ!」
 喇叭手が不安を奏で、騎兵が縦一線に整列した。一人の負傷兵が溝からはい出し、手をかざしながらヴィチャガイチェンコに言った。
 「連隊長殿、負傷兵を代表して来たんですがね。俺たちはここに取り残されるんですかい……」
 「お前たちは戦闘から離れていられるじゃないか」。ヴィチャガイチェンコはそうつぶやくと、馬を後ろ足立ちに立たせた。
 「連隊長殿、俺たちは、どうもそういうわけにはいかないような気がするんですがね」と、負傷者の代表は去って行くその背中に向かって言った。
 「泣き言を言うな」。ヴィチャガイチェンコは馬首を巡らして言った。「きっと、お前たちを取り残したりはしないから」。そしてまた手綱を引いた。
 その瞬間、わが友アフォニカ・ビダの泣き女のように甲高い声が響いた。
 「連隊長、速歩(トロット)で行くのは良くないですぜ。敵まで五露里は走らなきゃならんでしょうからな。馬がへとへとになっちまったら、どうやってぶった斬るんです……。がっつく必要はありませんぜ。聖母さまの御許で梨もぎをする時間はたっぷりあるでしょうよ」
 「ゆっくり進め」。目を上げずにヴィチャガイチェンコが言った。
 連隊は立ち去った。
 「もし師団長の噂が本当なら」。アフォニカ・ビダが馬を止めて言った。「もし更迭されると言うのなら、その時には、俺たちはやられっ放しになるだろう。おしまいさ」
 その目から涙がこぼれた。私は言いようのない困惑を覚え、アフォニカを凝視するばかりだった。彼は全身をくまなく点検すると、かすれた鬨の声を上げ、一目散に駆けだして行った。
 愚鈍なタチャンカを操るグリシチュクと私は取り残され、夕方まで火の壁のあいだを走り回った。師団の司令部はもう影も形もなく、他部隊は私たちを受け入れてくれようとしなかった。連隊はブロディに入ったが、反攻されて痛手を負った。私たちが街の墓地に近づいたとき、墓石の陰からポーランド軍の斥候隊が顔をのぞかせ、銃を構えると、こちらを狙い撃ちしだした。グリシチュクは向きを変え、タチャンカの四つの車輪すべてが泣き喚いた。
 「グリシチュク!」銃声と風音の中から私は叫んだ。
 「悪い冗談だぜ」と、グリシチュクは悲しげに答えた。
 「私たちは滅びるだろう」。私は死の恍惚にとらわれて叫んだ。「父よ、私たちは破滅です!」
 「なんだって女は苦しまなくちゃならないんだ」。グリシチュクはいっそう悲しげに答えた。「口利きや婚礼は何のためにあるんだ。名付け親は何のため、結婚式のたびに仲人が飲んだくれるのは何のためだ……」
 空に薔薇色の尾が輝いて消えた。星々のあいだから天の川がくっきりと姿を現した。
 「おかしいったらないぜ」。グリシチュクは悲しげに言い、鞭で道ばたに座り込んでいる人間を示した。「おかしいったらないぜ、なんだって女は苦しまなくちゃならないんだ……」
 道ばたに座り込んでいたのは、通信兵のドルグショフだった。両脚を地面に投げ出し、こちらをまっすぐに見ていた。
 「俺はほら、この通りだ」。近づいた私たちにドルグショフが言った。「助からん……。わかるか?」
 「わかるさ」とグリシチュクが馬を止めながら言った。
 「俺のためにひとつ薬莢を使ってもらわなくちゃならん」。ドルグショフは厳しく言った。
 彼は木の幹にもたれていた。脱いだ軍靴が別々の方を向いて突っ立っていた。ドルグショフは、私から目を逸らさずに、そっと上着をめくった。腹が破れ、腸が膝まで垂れ、心臓が動いているのが見えた。
 「特権階級(シュラフタ)に出くわしたら、いたぶられるのがオチだろう。身分証はここにある。何がどうしたか、母親に手紙で知らせてやってくれ……」
 「できない」。私はうつろな声で答え、馬を先へ進めた。
 ドルグショフは、地面に広げた青い手のひらを、信じられないようすで、しげしげと見た。
 「逃げるのか?」 地面に崩れ落ちながら、そうつぶやいた。「逃げるがいいさ、このクソ野郎……」
 私は全身、汗びっしょりになった。機関銃の銃声は、ヒステリックなまでにかたくなに、ますます迅速になってきた。そのとき、アフォニカ・ビダが黄昏の光輪に包まれて私たちの方に駆けてきた。
 「ちょっとずつだが、やつらを引っ搔いているんだ」と陽気に叫んだ。「お前たちはそこで、何のお店を開いている?」
 私はドルグショフを指し示すと、その場を離れた。
 彼らは手早く話をつけたが、私には内容までは聞き取れなかった。ドルグショフは小隊長に自分の手帳を渡し、アフォニカはそれを軍靴にしまうと、相手の口に銃弾を撃ち込んだ。
 私はみじめな微笑を浮かべて、コサックに近づき、言った。「アフォニカ、俺にはできなかったのだよ」
 「去れ」。彼は青白い顔で言った。「ぶっ殺すぞ! お前たち眼鏡野郎は、俺たちの兄弟を、猫が鼠を憐れむように憐れんでやがる……」
 そして撃鉄を上げた。
 私は振り返らず、背中に寒さと死を感じながら、ゆっくりと進んだ。
 「おい、馬鹿なまねはやめろ!」背後からグリシチュクが叫び、アフォニカの手を押さえた。
 「この媚びた血筋め!」アフォニカは叫んだ。「そいつは俺から逃れられやしないぞ……」
 グリシチュクは門のところで私に追いついた。アフォニカは見当たらなかった。別の方角に行ったのだろう。
 「グリシチュク、見ただろう」。私は言った。「俺は今日、初めての友アフォニカを失ったよ……」
 グリシチュクは御者台からしなびた林檎を取り出した。
 「食いな」と私に言った。「食うといい」。
 私はグリシチュクの施しを受け取り、その林檎を最後まで食べた。
            ──ブロディ、一九二〇年八月

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