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ゲームは子供を暴力的にしないかもしれないが、俺はRUINERの暴力を愛する

週末は大体ひいきの喫茶店で本を読んでいる。珈琲豆は王道から搦め手まで揃っているし、飯もデザートも最高、タバコも吸える。あとビジネスの目線から考えると良くないのかもしれないが、空いている。快適。

だが先日、4人の中年グループが入ってきて、その中の一人はまるで店中に己の存在をアピールしたいかのように大声で喋るので、水をぶっかけたい衝動に駆られる。おいおいおい居酒屋じゃねえんだ。でももちろん抑える。俺は小心者だし、面倒くさいことになりそうだし、そもそもでかい声だすのも自由だし俺も社会に属するものとしてetc……となんか最早、常識とかマナーじゃなくて「俺のほうが正しいんだ」みたいな方向に脳が回転し始めて良くないので、さっさと店を出る。俺をいつも快く迎えてくれるがあまり干渉してこない素晴らしい店長もその日ばかりは「すいませんねー」みたいな顔でサービス券を渡してくるので、いたたまれない。みんな何かしら折り合いをつけている。

人生は常に複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力より外にある筈はない。
(芥川龍之介『侏儒の言葉』)

芥川は自殺した年にこれを書いたが(侏儒は中国の昔の頭の良い人とかじゃないよ)、RUINERを見せればホラ見たことかと笑ったかもしれない。

RUINERは暴力、怒り、衝動を肯定する。
クォータービューで近接攻撃と銃、ダッシュといくつかのアビリティを駆使して、いや御託はいいとにかく敵を殺す殺す殺す。
主人公は背中に「弟」って漢字で書いてあるジャケットを着たアホみたいなDead Spaceのアイザック・クラークみたいな印象で、全く喋らない。感情表現は首を縦に振るか横に振るかだ。でも顔のマスクに「KILL YOU KILL YOU KILL YOU」って表示されて俺は理屈ではなく本能でこいつはカッコイイって分かる。

ハンドガン、火炎放射器、バット、刀……敵を殺して敵を殺すと武器を消耗するから敵が落とした武器を拾ってまた敵を殺す。ダッシュで死にかけの敵に近寄りかっこよくトドメを刺すと体力が回復したりして、ゲームは俺の殺戮を評価してくれている。
攻撃、ダッシュ、攻撃、ダッシュダッシュ!
アクションシューター? ラン&ガン? 俺の殺しのリズムをカテゴライズするな!

一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
いのりてしこと
(石川啄木『一握の砂』)

ゲームのストーリーはこうだ。悪い組織にひ弱な兄が誘拐される。主人公は兄を助けるために悪いやつらをを繰り返し殺しまわって、たまにレンゴクシティと呼ばれる繁華街に戻って情報を集めたりする。
レンゴクシティはネオン輝くザ・サイバーパンク!平沢進が手掛けたBGMも手伝って名前の通りこの世ではない感じがする。マップに隠れた猫を探すだけの退屈なサブクエスト、使用できないダッシュ、不潔な街、迷路みたいな路地。俺は次のステージにさっさと進みたくなる。新たな殺しのリズムを奏でたくなる。

敵は変なやつらばかりでマシンガンに「処女」とか「猫」とかこれまた漢字で書いてあって、でもなんじゃそりゃプププと笑ってる暇もなく襲ってくるので、こっちもシームレスでフローレスな暴力を続ける。

ボスクラスの敵は結構不快感を湧き立てるデザインで、でもこれも俺の暴力を正当化するためのものではないか?だって街に戻っても猫を探すだけだ。兄を救わなければいけないという大目的こそあるが、俺はこれすらもゲームが与えてくれた言い訳に過ぎないと本能で理解している。
俺は正しいことをしているのか?
しているに決まっている。
俺は正しいことをしなければいけなくて、それは目の前の敵に怒りをぶつけることだ。
俺の暴力はこのゲームを遊び続ける限りずっと正義。死んでももちろんコンティニュー。誰も止められないし、止めさせやしない。

正直に言うと、ストーリーは短いし、戦闘もだんだん単調なのがわかってくる。ボス戦は少しギミックがあったりするが、むしろそのせいで簡単になったりする。
でもだからなんだ?
楽しいんだから良いだろう?

俺は俺の人生を簡単にするために、赤と黒だけのRUINERの世界にいつだって戻ってこれる。

俺は自分が暴力的になることが恐い。俺は取り返しのつかないくらいをとっくのとうにすぎたくらいに何かを完璧にブチ壊してしまうことを恐れている。俺は多分内なる恐怖をたくさん抱え込みすぎているのだろうと思う。自分の受けるかもしれない暴力や苦痛や死。こういった人間本来持っている根源的な恐怖を俺は必要以上に怖がっているのだろう。自分の抱えた強烈な恐怖が他人に対する強烈な暴力を生む。
(舞城王太郎『煙か土か食い物』)


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