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Outer Wildsはナラティブという神の国を神の眼でノンリニア

Outer Wildsのネタバレは極力無しで書きますが、やってないやつは今買え。買わないのか? だからお前はダメなんだ。

神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。
(ルカによる福音書)

Outer Wildsの説明を簡潔にしよう。
宇宙はゲームが始まってから22分で超新星爆発によって滅びてしまう。
プレイヤーはその22分をループできる。
22分のループの中で、宇宙を探索し、「知識」を得て、この状況を打破しなくてはいけない。

逆に言ってしまうと、「知識」さえあればすぐにクリアできる。
私自身、Outer Wildsのクリアまでは20時間以上かかったが、今なら一から始めても22分の1ループ内でクリアできるだろう。(その工程の中で事故ったらもちろん無理だが)
それは決して私のゲームの腕前の話ではない。Outer Wildsの化け物じみたレベルデザインによるものなのだ。

さて、いきなり聖書からの引用でこの記事自体をすごくとっつきづらい感じにしてしまったが、まあエンターテイメントも同じ感じで語れるんじゃねえの?という体で書こう。(キリスト教に詳しくないので、この引用の解釈が私の中で正しいかどうかも知らない、責任も持てないし持ちたくない)

エンターテイメントはメディアそれ自体では成り立たない。体験するものがいて初めて成り立つ。
ゲームはプレイされて初めて成り立つのだ。「神の国」はゲームとプレイヤーの間にある。言ってしまえば「体験」だ。

もちろん「良いゲーム」はそれだけで良いものだ。値段以上の体験(効用)をプレイヤーが感じ取れればそれだけで最高だし、売れればゲーム会社の人たちも豊かになる。

だがしかし少し目を背けたくなる現実だが、「良い体験」は「良いゲーム」だけのものではない。
最近でいうと『ファイナルソード』がそれだ。あれは「悪いゲーム」として有名になってしまったが、多くの『ファイナルソード』を語る人々に(作者の意図とは異なるかもしれないが)笑いという「良い体験」をもたらした。

効用は消費者とモノの間でだけ測れるものではない。(ポケモンを買っても周りで誰もやっていなかったらその魅力は損なわれるだろう)
そしてVtuber含む実況者やSNS等、ネット社会はそれを加速させている。
『あなたがたの間』ですら時代と共に無限大に広がっている。

有り体に言ってしまえば「共感」できれば楽しいよね、だ。
感動を分かち合うとか、一緒に笑うとか。

Outer Wildsはその次元の一歩上を行った。
断片的には語ることができる。素晴らしいゲームだった、感動的な音楽だった、演出が神がかっていた。

しかし私とOuter Wildsの間にある「神の国」は私しか知らない。他の人は誰も入れないのだ。同じくして私も他の人の「国」には入れないだろう。
Outer Wildsをプレイ済みの読者ならわかるだろう。あなたの発見と達成と理解の喜びは私のものとは異なっているはずだ。同じゲームをやっているはずで、ゴールも同じなのに、全く違う体験をしている。一般的なオープンワールドゲームと同列に語れないレベルには。
プレイしていない人は買いなさい。

ここでOuter Wildsのノンリニアさが際立ってくる。

大半のモノは「時間」に縛られてしまう。
小説は基本的に最初から読まないと楽しめない。映画も冒頭からエンドロールまで観て初めて語れる。どうしてもリニアになる。
『メメント』はそれを逆に活用した映画であるし、グランドホテル方式の作品は同じ時間を他の視点から描くことで多様性を生み出している。
しかし基本的には読者は縦書きの本を右から左に読むし、動画の再生バーが右にしか進めない。縛られてしまっている。どんでん返しは伏線無しでは発生しない。読んでいる本の残りのページの薄さで物語が佳境に入っていることはどうしてもわかってしまう。

だがOuter Wildsはそこから脱却した。
「時間のループから逃れる」というゲームの目的とも似ているのではないか。
プレイヤーがエンディングにたどり着くまでの「手法」こそ決まってはいるが、それを知る順番は完全に自由、ノンリニアだ。
アイテム、レベル、フラグ……Outer Wildsはそういった事柄をすべて「プレイヤーの知識」に委ねた。
その結果、「プレイヤー一個人」と「Outer Wilds」の間には時間や順番に縛られないナラティブが形成された。

ゲームでしか出来ない表現があるんだ!なんて言うことは簡単だ。
だがOuter Wildsの恐ろしさを知った後だと、少し気が咎めるかもしれない。


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