理由求めすぎ問題

「何考えてるかわからない」といわれることがある。私も人が何考えてるかわからないし、私は何も考えてない時だってある。

じゃあなぜ「何考えてるかわからない」というのか?
コミュニケーションエラー的に考えると、相手の言い間違いの可能性もある。「何考えてるかわかるようにして欲しい」ではなく、例えば「質問したときに、はっきり回答がしてほしい」と思っているのかもしれない(私は作業に集中していて話すのが面倒なときに、適当に返してしまう癖がある)。また、本当は「こちらが望む通りの反応をしてほしい」と思っているのを婉曲的に表現したのかもしれない。

もし「何考えてるかわからない」が言い間違いでないとしたら、「相手が何考えてるかわかるものである」と考えるのだとしたら、それは思い上がりなのでは、と思ってしまう。しかし、後から言葉の真意について一人で考えてもしょうがない。もやもやするのでこの記事を書いてみた。

じゃあ、人間がよくやる思い上がりについて考えてみたい。例えば、「人間には自由意志がある」という人がいる。でも意志の前に行動が先に起きるという研究がある。何でも自由意思があると考えるのは、思い上がりだ。

「人間は合理的な生き物だ」という人がいる。でも合理的に行動したように見えて、行動した後に行動の理由を後付けするということを私たちは日常的に行っている。「合理的」な理由に基づいて行動するのではなく、行動した後にその理由を作って行動を「合理化」する。「人間は合理化する生き物だ」と言える。なんでも合理的な説明がないとおかしいと思うのは、思い上がりだ。


意志の前に行動が先に起きるという研究の参考資料

われわれが「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されていることになる。


行動した後にその理由を作って行動を「合理化」するの参考資料

左脳の「意味解釈機能」は、常に自分の行動や体験に意味を探し、物語を与えようとしています。それが偶然起こったことだったとしても、自覚がない無意識の働きによるものだったとしても、そこに筋の通った物語を与え、「わたし」がそう考えたからそうしたのだ、と思い込むのです。そして、その思い込みは時々間違ってしまいます。本当の理由ではない、別の理由を作り出し、それが「わたし」の考えた結果だ、と思い込んでしまうのです。


もう一つの例がこちら

小坂井敏晶著 「社会心理学講義」 第6講 認知不協和理論の人間像

被験者は選択の「理由」を誠実に「分析」して答えました。自らが取った行動の原因が実際にはわからないにもかかわらず、我々はもっともらしい理由を無意識的に捏造するのです。


何気ない行動について理由の説明を求められることがある。自分がやっていることもある。でも人間、なんでも理由があって行動してるわけではないよなと思う。自分の行動について、自由意志か否か、合理的な行動か後付けの理由か、考えてみてもわからないけれど、「合理的経済人」のようなマッチョな価値観から離れたコミュニティが増えていったらいいなと思った。



余談
この一連の話は私の推しの学者である社会心理学の小坂井敏晶さんの本で知りました。おすすめです!!

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