言葉と呼ぶ

『Regret Report./リグレットレポート』第3回

これは毎週土曜0時に配信しているPodcast番組
『Re:creation Port./レクリエーションポート』を題材にしたエッセイです。

今回は『#27 破廉恥じゃありません「廉恥」です 』の内容に沿って話していくので、まだ聴いてない方はそちらを先に聴いてから、このエッセイを読んだ方が楽しめる内容になっていると思います。

「あなたは優秀だった」
幼い頃の僕を振り返る時、母はこう言う。
とにかく言葉を覚えるのが早かったそうだ。
ワンワン、ブーブー、にゃーにゃー。
どこに行っても、手当たり次第に指差しては、物の名前を言っていたらしい。
そんな幼い頃の記憶はもうないのだけれど、
ふとした時にスイッチを入れたかのように、そういうモードに突入する時がある。
勿論、幼児退行するという意味ではない。
歩いている時に目に入る広告や店名、文章を手当たり次第に読み上げるのだ。
自分でも何の意味があるのか全く以ってわからないけど、そういう時がある。
あれは何なのだろう…

言葉の習得が早かったのは教育の賜物だろうか。
自己分析するに単純に耳が良かったんだと思う。
教育とは別だが、それも親からの贈り物か。


僕は言葉が好きだ。
改めて言うと大げさな感じがするがそういう風に思う。
ただ何がそう思わせるのかがわからない。
生まれてこの方、日本語を使っている。
もはや自分の一部だと言っても過言ではない。
それなのに未だに計り知れない。
海みたいだ。
常にそこにあるのに底知れない。

一時、言葉の濁流に飲み込まれ溺れかけたことがある。
僕には言葉を特別視するあまり、それを絶対のように思っていた時期があった。
言葉で全てを説明できると思っていた。
しかし当然、そんなわけはなく僕は大きな壁にぶち当たることになる。
どれだけ言葉を尽くしても伝わらない相手には伝わらない。
コミュニケーションにおいて、言葉は欠陥だらけのツールだったのだ。
人間とは、どこまでいってもわかりあえないものなのである。
そういう絶望が僕を蝕んだ。

かと思えば、散々僕が助言しても聞く耳を持たなかった人が、他の人の言葉にはあっさり耳を貸していたりすることがあった。
内容は同じなのに。

言葉になんて意味はない。
自分の言葉には価値がない。
そんな風に腐っていった。
それから言葉よりも行動の方が雄弁なんだとも思うようになった。

ある時、父は言った。
「馬鹿だな。言葉なんてどうでもいいんだよ。ボディランゲージの方が重要なんだよ」
僕は少しムキになって反論したが、父はこう続けた。
「言葉がわからなくても外国人とコミュニケーション取れるだろ。逆に日本人でも話が通じないやつはいる。つまり、言葉なんかどうでもよくて、相手にコミュニケーションを取る気があるかないかの違いでしかないんだよ」
詳細は忘れたが、そんな様なことを言っていて、なるほどなと思った。
コミュニケーションを取りたいと思われる人間にならなければなぁ。

何を言うかも大事だが、もしかしたらそれよりも誰が言うかが大事なのかもしれない。
誰の言葉なのか。
何を成した人が言うことなのか。
どういう生き方をしている人が発した言葉なのか。

そうそう、声の力も大きいと思う。
声優さんで見たくなる作品もある。
あの声で聞きたいというのは、凄いことだ。

それに加え同じ内容でも、どういう伝え方をするのかも重要だ。
一口に言葉と言っても、そこには色んな要素が付随している。

全てが合わさって、その人の言葉になるんだな。

色々と回り道をして、また戻ってきた。
この現在地。
言葉を扱う番組の音声配信。
そして想いを認めるエッセイ。
あ、凄い!
認めると書いて(したためる)と読むんだ!
知らなかった!

凄く近いようで、とても遠いような。
わかるようで、わからないような。
簡単なようで、難しいような。
ただの音、線の変形。
姿なきものに形を与え、意味を持たす。
人はそれをー


Twitterはこちら。 (@RECREATION_Port)

武藤翔馬 (@shoma674)

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