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知らんぷりと見て見ぬふりの麻痺が起こす悲劇

ネットニュースで見かけた記事にすごい違和感を感じました。なんでも、大阪府で若手の教職員の授業について元校長らが査定を行い教員の指導能力を見える化する取り組みをスタートさせるとのことでした。そんなことにお金と時間を使う理由はやっぱり、全国共通テストで大阪府の学生の成績が振るわなかった事だそうです。ツッコミどころ満載すぎますが、なぜこんな思考になってしまうのかを考えたとき、ふと浮かんだのは、大多数の日本人は誰も知っていること、わかっていることに対して背をを背けて見て見ぬふりをする習慣が身に付いてしまっているのではないか?との疑念です。

検索リテラシーを若者は既に持っている

昨日のnoteにも、今の学校教育では本当に大事なことを教えずに、限られた人生の時間を無駄に過ごす、もしくは遠回りさせる本末転倒な教育を続けてしまっている。と書きました。知識を詰め込み、覚えても何の役にも立たないことを丸暗記してスマフォ持ち込み禁止のテストの場での点数を競い合い、その優劣によって順位を決めることなど、情報化社会に移行した今の時代、何の役にも立たないことなど誰もがわかっていると思うのです。今の時代、地頭が良いとは上手にネットで検索ができる人のことを言うようになっており、若者はそのリテラシーを皆が備えています。世界は圧倒的、かつ根本的に変わってしまったのに、次の世代の日本を担う子供たちに半世紀前から変わらない教育を受け続けさせるなんてクレイジーだと誰もが知っているはずで、これって分かっているのを知らんぷり、見て見ぬふりしているだけでは無いのかと思うのです。
昨日の記事はこちら、

地域経済の空洞化を黙認

おかしいなと感じる事は教育の世界だけではなく、身の回りにもたくさんあります。例えば、インターネットの普及とアマゾンの台頭で近所にあった本屋さんは次々と潰れてしまいました。このままネット通販に依存する人が増えると、本屋さんにとどまらず地域経済の空洞化は際限なく進み、アメリカのようにおもちゃからスポーツ用品、生鮮食料品まですべてアマゾンで購入するようになり、結果、日本人全員が貧乏になってしまいます。そんな理屈は誰もがわかっているにもかかわらず、アマゾンで本を買う人は減少する傾向にないのは、自分だけ良ければいい、地域の店が潰れるなんか関係ないやん、と言う思考と、周りの人の苦しみを見て見ぬ振りするのに慣れてしまっているのではないかと思うのです。

職人無くして売り上げ無し

私がなりわいとしている建築業界では深刻な人手不足が顕在化しており、職人になる若者がいないのは職人の地位が低すぎる、まともな所得を稼げてないからだと誰もが知っています。大工として働いているのに自分の家を建てることさえできないのが当たり前になっている現状を変えるべきだと、大工の正規雇用を推進し安定した収入を保障するべきだと、全国あちこちで私が熱く語ると、聴講に来られた方々は、なるほどその通り、と首を縦に振られます。しかし、実際にズブの素人から職人を育てる数千万円の費用負担を覚悟して職人を正規雇用する会社はごく1部で、ほとんどの会社は相変わらず見て見ぬふりをして、今何とかなってるから、と誰かが育てた職人を安く使うことばかり考えます。職人の高齢化と若手不足がこのまま推移していくと10年もたたないうちにいくら仕事を受注しても工事ができずに破綻する会社が続出するようになります。現場で工事ができなくなれば建築会社の売り上げは立たないのは全員がわかっているはずなのに、知らぬふりを決め込む事業者がほとんどなのは、本当に理解に苦しみます。

上っ面の世界への麻痺

私からすると少し先に必ずやってくる、分かり切っているリスクに対して見て見ぬふりをする方が恐ろしい様に思いますが、どうやらこの世の中はそっちの方が当たり前で、わかっていることをわかっている通りに理解して、行動する方が少し奇異に思われる風潮があるようにさえ感じます。その根本は一体何なのか?と考えたとき、思い当たるのはやはり教育で、実社会において大して意味のない、薄っぺらい勉強を一生懸命しなければならない制度に慣れ親しむうちに、世の中ってこんなものなのかと考えるようになるのではないかと思うのです。日本人の殆どの人が意外と上っ面だけごまかしておけば通ってしまう世界に感覚が麻痺してしまったのではないかと思うのです。

ルール準用の常識の麻痺

連日大いに盛り上がっている北京オリンピックで、先日、高梨沙羅さんがスキージャンプ団体の決勝戦でウェアの規定違反で失格になった事件がありました。1回目のジャンプ競技終了後に抜き打ちで検査をされて、失格にされたと言うことで、なぜボクシングの計量のように事前にチェックしないのか?とか、高梨選手以外にも有力選手が相次いで失格の判定を受けたことで、恣意的なものがあるのではとか大いに議論を呼んでいます。何が真実なのか真偽のほどは分かりませんが、ただ、失格のジャッジをした(ジレットと異名を取る)判定官は胸を張って自分を正しいことをしたとコメントを出しており、逆に選手の規定遵守に対する態度、意識の低さについて嘆いておられました。ルールは明確に決められているにもかかわらず、これぐらいまでなら大丈夫だろうと、競技する側の感覚が麻痺していたのなら、当たり前のことを当たり前にする人が出てきたら大きな軋轢を生じさせる例ではないかと私は感じながらその記事を読みました。

批判的視点と微力な行動

正義は立場や考え方、よりどころとするものによって大きく変わります。また、数年前まではありえないと思っていたことが起こり、複雑さが極まり、価値観がひっくり返った現在において、正しい、正しくないと言う議論は不毛です。しかし、このままの世の中が進行すれば何の拠り所ない、何でもありのVUCA(不安定、不透明、複雑、曖昧)な世界に陥るばかりです。ろくでもない世界になるのを止めるのは、原理原則であり、真実を見極めて当たり前のことを当たり前に行う勇気ではないかと思うのです。教育、経済そして社会等々の課題に対して我々大人がまっとうな批判的な目を持ち、違和感を感じることに対してもう少し正面から向き合う姿勢が必要ではないかと思うのです。慣れ親しんでしまったちょっとしたおかしなのことに対して、目を向け、微力ながらも行動を起こしたいと思います。それが、次世代に対する私たちの責任ではないでしょうか?

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地域の課題に取り組んでいます。

職人の社会的地位向上をミッションにかけています。

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