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「ふてほど」で拾った最適化社会を生きるメタファー

時代を超えて繰り返し人気が出るタイムスリップものドラマがまた話題になっています。少し前にも不良少年がタイムリープするアニメ、東京リベンジャーズが人気を博したところなので、少しスパンが短い気もしますが、「不適切にもほどがある!」が50代の昭和生まれのおっさん世代の間で密かなブームになっています。
昭和から令和の現代にタイムスリップしてきた阿部サダヲ演じる、中学校の体育教師、小川市郎が、パワハラ、セクハラなんでもこいの不適切発言を繰り返す姿に声をあげて共感したいけど、それをしちゃうと自分の本性がバレる、的な雰囲気があるのか、あまり話題には上がりませんが、個別に聞いてみると結構な数のおっさんが嬉しそうにドラマを見ている様子。微妙な雰囲気を醸しているこの現象自体が今の時代を物語っている様に感じてなりません。

不適切に目くじらを立てるだけのメディア

昨今、TVの情報番組で多くに時間を割かれているのは、不適切発言と不適切行動のオンパレードです。政治家がうっかり口を滑らしたり、飲み会でダンサーを呼んだりしたのを延々と追求する姿は見ていてゲンナリします。TVは単純に企業の広告媒体とはいえ、一応、公共性のあるメディアだとの自覚があれば、もう少し大事なことを報道すればいい様に思いますが、戦争とテロの応酬が世界に拡散して本格的に第3次世界大戦の口火を切ったと大騒ぎしている海外メディアと比してあまりにも幼稚で下世話に過ぎます。それだけ、日本国民の民度が低く、幼稚で愚かな民族に成り下がってしまったのかも知れませんが。情けない。
そんな、暗澹たる気持ちになってしまう現代に一石を投じたのが、「不適切にもほどがある!」(略してふてほど)ではないかと思いながら観ています。アウト!な発言を繰り返す市郎が不倫が発覚して干されるアナウンサーを擁護して、一度くらいの過ちは寛容さを持って受け入れてやろう!と呼びかけるシーンは、傷の舐め合いの構図の虚しさを演出していました。
正論は正しい言動をしている人が口にするから正論だと思い知らされます。

ハラスメント自体がハラスメント

詳しくは、ドラマを観ていただければですが、コメディータッチのこのドラマでは考えさせられること、というより身につまされるシーンがいくつもあり、ただ面白いだけではない、私たちにいくつかの問いを投げかける姿勢が観て取れます。
一つは、「不適切」にめくじらを立てる現代社会の厳しすぎる風潮に対して、生きづらさを感じる人を増やすことになっていないか?との疑問です。
ハラスメントで立場が上の人を訴える件数がこの近年、鰻登りに増え続けているのは、元々弱者の保護、救済のための仕組みや概念が、腫れ物を触るが如く双方を萎縮させ、コミュニケーション不全を引き起こしている側面や、世代間の常識の乖離を生み出し、溝を深めたりした結果だと感じています。
ハラスメントという概念が広がったことで、弱者が強者になり、強者が弱者になったのですが、これはまた逆のハラスメントの可能性を内包しており、双方向に攻撃し合うだけの無間地獄の様相を呈するかも知れません。

カオスこそが最適化の象徴

実際、私の身の回りでも、ハラスメントの事象がいくつも起こっており、そのたびに社内で大きな役割を担っていた人が更迭されたり、爪痕だけを残して、若者が去って行ったりが繰り返されています。
ハラスメントを行ったと訴えられた側の人に聞くと、そんな圧をかけた覚えは全くなく、いつも通りのコミニケーションをしていただけ。と、もれなく答えられます。時代が変わったのに気づかない鈍感さが悪いと言ってしまえばそれまでですが、コミニケーションは双方間のものであり、その関係が毀損するのは片方だけに責任があるとは言い切れません。受取側がハラスメントをされていると認知した時点で関係修復は困難になり、どんな言葉をかけても悪い方向に流れてしまいます。
ハラスメントの認知拡大はすぐに人間関係を断ち切ってしまう風潮が世間に蔓延したとの見方もでき、それは結局、誰もが生きにくい世の中になってしまっただけなのかも知れません。混沌としたカオスな様相を呈しておりますが、このプロセスこそ最適化社会への流れだと感じています。

SINIC理論

最適化が極まる年

オムロンの創業者、立石一真氏が50年前に発表されたSINIC理論はその予測の精度の高さが大きな話題になっています。そこで示されていたのは、2004年から2024年までを最適化社会、そして2025年から自律社会へと移行するとの時代の変遷です。そして、今年が最適化が極まる年となっています。
「最適化」という言葉に対する解釈は様々ありますが、わかりやすいのは、これまでまかり通っていたおかしなことが正されて、多くの人の幸せが実現されたり、地球環境にとってあるべき形が整ったりではないかと私は考えています。決して、自分自身にとっての最適化ではないと。
ハラスメントが一般化して、会社や組織でのパワーバランスが逆転したことも然り、日本最大与党の自民党の派閥が解体されたり、世界で横暴を繰り返してきたアメリカへの権力の一国集中が崩壊したりと、近年起こっているすべての事象は最適化が極まっている証だと見ています。
最適化と言う言葉は、実はカオスのプロセスを踏むことを内包しています。その中で、おかしなことはおかしいと、声を上げられる環境がととのうことが最適化社会なのだと思うのです。

皆が最適を考えることが最適化社会

私が、「ふてほど」で示されている最も重要なメタファーは、主人公の小川市郎の不適切発言の数々が実は適切で、不適切だとめくじらを立てすぎる社会が歪んでいるように感じ始める、パラドックスではないか、と思います。
一昔前になりますが、2007年に発売された「法令遵守が日本を滅ぼす」とのタイトルの本が一部でとても話題になりました。最適化社会に入ったタイミングで書かれたこの本には、行き過ぎたコンプライアンスがコミュニケーションを壊し、人のモチベーションを下げて、組織を衰退させるとの予言の書はそのまま現実として今の社会に現れている様に感じています。
行き過ぎたコンプライアンス、行き過ぎた資本主義、行き過ぎた格差や差別へのバッシング、行き過ぎたガバナンス、それらは全て、一部の人にとっての最適かも知れませんが、絶対に全体最適ではありません。最適化された世界とは一体どの様なものなのか?、誰にとっての最適化なのか?その問いを広く多くの人が考えることこそが最適化社会そのものだと気付かされました。

中庸とメソテースと中道と最適

行き過ぎた、偏った社会は最適ではない。と考えた時、最適化と近しい概念だと気がついたのは儒学の最高の概念とも言われる中庸です。江戸時代の学問の中心に位置付けられた朱子学では大学を初めに学び、最後に中庸を身につけるべし。と組み立てられた位、非常にレベルの高い概念とも言われます。また、仏教では中道、アリストテレスはメソテース(中間にあること)という言葉でほぼ同じ概念を重要視しています。悠久の時を経て受け継がれてきた真理や原理原則に、産業革命をはるかに超えた情報革命を経たテクノロジーが圧倒的に進化した大きな時代の転換期こそ回帰するべきだ。との意味だったのかと妙に腹落ちした次第です。
おちゃらけたドラマに見えますが、是非とも「ふてほど」を観て、違和感とパラドックスを感じて頂ければと存じます。最適化社会のラストイヤーに対する在り方が見えてくるのではないかと思うのです。

ちゅう‐よう【中庸】
1.かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。「—を得た意見」「—な(の)精神」

2.アリストテレスの倫理学で、徳の中心になる概念。過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとした。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

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SINIC理論研究会の発表をシンポジュウムで行います。基調講演はあの、山口周さんです。誰でも参加可能なのでご興味があればお声掛けください。


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