スピリチュアル的に見た不食、肉食

菜食主義者でない私が語るのも場違いかもしれないが、最近あちこちで話題として取り上げられているので思うところをまとめた。

菜食主義者がよく言うように人間は食べなくても生きていける能力が備わっているようだが、では食事とは何なのか?

端的に言って、あるスピリチュアルの方がおっしゃってた「食事とは娯楽」との定義に同意したい。

たしかにヒマラヤのババジのように食事をとらずに2000年近く生きている不老不死の仙人のような方もいらっしゃるが、食事という大いなる楽しみを放棄してまで長生きし続ける人生にどれだけの価値があるのか疑問だ。

そもそも根源的な問いとして「この地球でそんなに長生きしたいと思ってる?」と世界中の人々に聞いてみたい。

菜食主義者やスピリチュアル分野に興味を持たれる方は、ほぼこの不食や肉食についての関門を通過しなければならないかのように思っている・・ように見受けられる。

さらに食品添加物や遺伝子組み換え、無農薬、化学肥料・・云々云々、体に良くないものについて異常なまでに調べ上げてそれらを拒否する。私から見て病的に思えるぐらい神経を尖らせているようだ。

食べて病気になるより、精神的に病的にならないか・・そちらのほうが心配になる。

たとえば牛乳は体に良くないと言われているが、人間の母親が赤ちゃんに与える粉ミルクなどには原料に牛乳が使われてるんじゃないか?母乳の出にくい母親にとっては助けになると思うんだが。

乳牛からの搾乳を動物虐待だと言ってレッテル張りをするが、母親や乳母が子供に乳を与えるのは子供が母親や乳母に為す虐待とは呼ばない。

母親は子供に与えることで喜びを感じているとすれば、スピリチュアル的に考えて乳牛が人や他の動物等に乳を与えることが喜びでない(あるいは苦痛である)と決めつけることはできないのではないか?

これは肉牛にとっても同じことだ。自分の体が人間や他の動物にとって役に立つなら、喜んでもらえるなら・・進んで体を提供してくれるという考え方があってもおかしくない。

第一、牛として長く生きていてスピリチュアル的に牛にとって幸せかどうか・・毎日檻に繋がれて、外に出て草を食むだけの毎日なら人間なら耐えられないだろう。鶏だとさらに過酷だ。

そもそも人間でも動物でも植物でも、この地球に生まれてくること自体、どういう生き方、生存中の在り方、死ぬ時期などを計画して三次元としての物質的な体を持つので、人間であろうと動物であろうと死についても想定済みのことが起こっているに過ぎない・・と言うのがスピリチュアルの立場だ。

例えば、言い方は少し酷く聞こえるかもしれないが、屠殺される牛は「屠殺されるために生を得る」ことを事前に霊的に計画して生まれてきているということになる。

スピリチュアルの方々は自分が死ぬことを恐れないと言っている人が多いので、牛の死についても同様に想像できるのではないかと思うのだが。

私が菜食主義者等を欺瞞的に感じるのは「動物ならダメで植物ならオッケー」のように言われる方を時々見かけるときだ。

スピリチュアル的には、動物も植物も鉱石も・・もちろん地球自身も生命体(つまり命が宿っている)であるというのが一般的だ。

植物だって生きているんだから採って食べるのは命をいただいているということで動物を食べるのとどう違うんだ?という疑問だ。

もっと言えば蚊やゴキブリだって生きている。

それを人間心で気に入らない、あるいは害になる生き物は殺していいという暗黙の了解的になって抹殺している。ウィルスだって生きている。

こういうことを言うと「味噌も糞も一緒にするな」という声が聞こえてきそうだが、私が言いたいのは「その考えが自分の人生にとって役に立つかどうか」ということだ。

つまり菜食主義者のその「動物と植物を分けて何を食するかを決める」という考え方が人類にとって役に立つかどうか・・。

私が思うのは、食に対する感謝の気持ちを育み、生命に対する考え方を自分の中で導き出し認識を向上させることには役立つだろうと思える。一度立ち止まって考えてみるということだ。

今まで子供のころから無意識に食事をしてきた内容やその意味について深く考える契機になるかもしれない。

動物や植物は食べること以外にもその生命をいただいている事実がある。私が若いころ、オリビア・ニュートン・ジョンがクジラを食べる日本人に対して痛烈に批判したことがあったが、対する日本人はオリビアの写真で羽織っていた毛皮が動物のものだったことを揶揄して波紋を呼んだことがあった。

我々は気づいてないだけで数多くの革製品を生活で使用している。靴、バッグ、財布、ベルト、衣類、カー用品等など。

動物を食するのは仏教界でも異端のように思われたが、今では仏門関係の方々でも肉食は普通に行われているだろう。その点、親鸞聖人はあの時代にしてすごいと思う。

さて、結論として私が思うに「何を食べようと個人の自由」という事になる。菜食主義者や一部のスピリチュアリストがあれこれ言われてるが、肉食をしたからと言って地獄に落ちることも無いし、数多くのスポーツ選手などは肉体を強化するための手っとり早い方法はやはり食事にあると思われる。

我々は菜食主義的スピリチュアリストになるために生きている訳ではないだろう。人間は楽しむために、いろんな体験を積むために、様々な創造行為を行うために生きている。そうして生きているうちに味わう充実感や満足感、達成感が幸福の原点にあると思える。

動物も植物も同じように貴重な生命であり、必要以上に殺すことは論外で、与えてくれている生命に対して敬意と感謝の気持ちとで食することが大切だと思う。


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