2024.7.18 隅田にまつわるエトセトラ
一九八九年の九月、世の中の変化にあまり左右されないちょうどいい時代に、今はなきアサヒビール工場横にあった、これまた今はなき鈴木病院を選んで、わたしは生まれることにした。
浅草側からスカイツリーを望むときに見える、あの金のへんちくりんなモニュメントのビル群のところ、といえばわかるだろう。ちなみに墨田区役所の現庁舎やリバーピア含めここ一帯の区画の建物は、わたしが生まれたとほぼ同時に竣工されたので、まぁ幼なじみっちゃそう言えたり。
業平〜向島にかかる水戸街道沿いの、当時にしては小綺麗なアパートに住んでた母は、わたしを生む頃に押上の少し広いマンションに引っ越して、わたしの幼い記憶はこの部屋の中で始まることになる。(色々覚えすぎてて、どれが最初かはわからないが。)
ではこのマンション周りの愉快な生活をいくつか。
一階にはあの高名なスーパー「赤札堂」が入っており、二階には「えぐま歯科」、もうひとつは何て名前だったかな・・・おそらく従軍経験ありであろうジイさん先生がやっている内科があった。
我々母子はその二階の一室に住んでおり、すぐ風邪をひいたり病気をもらったりするわたしは頻繁に世話になっていたものだ。
とある日やはり風邪をひいたので、歩いて六秒のその内科を母と訪ねた。その日のジイさんは器具を持つ右手が妙に震えており、わたしの鼻腔内の粘膜の腫れ具合を拡げて見ようとするに、器具の先端が鼻の穴をおっぴろげてそのままひっくり返す勢いでブルブルと侵入してくるのだ。
奥に進むにつれて器具が刺さりそうな恐怖と、ブルブルとステンレスのこよりを入れられてるようなフガァ、という情けない声と表情が母の笑いを誘ってしまい、こらえるのが大変だったそうだが、こちらはやはりそれでも恐怖なのだ。
診察後子ども用のシロップ薬をもらって、辱めを受けた子を不憫に思った母は、わたしを連れ一階の赤札堂でキットカットを買い、ジイさんと幼児コントの着地を母なりに飾ってくれた。
七階の一室には管理人のご婦人、通称ヤクルトのおばさんが住んでいた。何も彼女がヤクルトレディだったわけではないのだが、訪ねた帰りにいつもヤクルトを一本持たせてくれた。そういえば思い出すとヤクルトの古田のようなメガネをかけていた。
今の感覚であらば五〜六十代くらいを想像してしまうが、平成初期の見た目年齢を考慮するに三〜四十代くらいだったかもしれない。(といってもさすがに今の俺と同じ・・・はないだろうが。)
とにかく二〇〇〇年以前は、まだギリギリ、サザエさんの世界観がそのまま世間の年齢観に近かったのだ。この二十年で驚くほど若い時代が伸びたので、道楽者のわたしには助かることばかりだ。独身だからって誰かに怒られるなんてないし。
ところで我が家のベランダ先には、ちょっとした広場というか屋外の空きスペースが広がっていて、よくそこを走り回ったり、おもちゃの車を乗り回したりしたもので。
しかしそこは当時で築三〜四十年。ぶしつけなコンクリートづくりの地面には、出っ張った小石やつなぎ目がわんさかあり、まんまと幼児小谷は前輪をひっかけて、そのまま前方へつんのめって前歯を強打。
えぐま歯科ではなく浅草松屋横(今の東武線のリバーウォークがある公園辺り)にあった小児歯科クリニックに通っていたので、そのまま自転車の後ろに乗って浅草へ。
前歯と前歯の間が見事に広がってしまい、幼児小谷、しばらくすきっぱ生活。この時ちょくちょく遊んでいた同い年くらいの女の子は、この日を境にわたしの記憶から徐々にフェードアウトを始める。痛すぎて暴れ回るように泣いたもんで、軽く引かれたに違いねえ。
「保育園の体験入園に行くよ」と言われ、歩いて四〜五分の・・・長いな。この先はまた別の回にしよう。