美女と野獣のもう一つの愛
愛し、愛されなければ魔法は解けず、永遠に人間に戻ることはできない。
美女と野獣を観た。
野獣はずっと愛されていたけど、気が付くことができなくて。そして愛し方を知らなかったんじゃないかな。
母が誘ってくれて、劇団四季の美女と野獣を観に行ってきた。
開演前にだけ自分の席から写真撮影が可能。
物語を象徴する薔薇の花が真ん中にある。
劇団四季を観に行くのは何年ぶりだろう。
今までだとライオンキングとウィキッドを観たことがある。
ディズニーの映画を観たことがない人もなんとなく美女の野獣の物語を知っている人は多いのではないだろうか?(私はその1人です)
劇団四季ながらの迫力や歌の力、全てが圧巻。
そんな中で、私はポット夫人やルミエール(蝋燭)、コグスワース(時計)達。
魔法で王子が野獣にされてしまった時に、野獣に仕えていた人たちも人間から別の姿に変えられている(ポットや蝋燭など)
野獣が人を愛し愛されたら仕えていた人々もまた人間の姿に戻れる。
だからベルと恋仲になって欲しい。
そんな流れをはさみながら物語は進んでいくんだけど。
野獣がベルにどう接していいか分からない時に、真剣に一緒に悩んで。
どんな会話をしたらいいか困った時は、小さい声でアドバイスして。
いつだって野獣の恋が叶うように応援していた。
それって、人間の姿に戻りたいからっていうよりも。
野獣が誰かに対して心を開いたことに驚いて喜んで。ずっと仕えてきた人がやっと人間らしい感情を持った。ずっとずっと長年見守ってきた人が癇癪を起こさずに話そうと努力している。
そんな姿を喜んでくれる、応援してくれるっていうのは、野獣は小さい時からこの人たちに愛されてたからだと思う。
最後、野獣はベルから愛されて人間の姿に戻る。
ポット夫人達も人間の姿に戻る。
ずっとずっと、ポット夫人やルミエール達は野獣を見守ってきた。きっと見守ることしかできないって思ってるんだろうけど、そんなの誰にでもできるわけじゃない。
人間ではなくモノになるっていうことは、自分の自由が奪われて尊厳も奪われるってこと。ポット夫人は自分の大事な息子までティーカップに変えられてしまった。
野獣を捲し立てるわけでもなく、責めるわけでもなく。
野獣が人間の姿に戻った時に。
野獣の恋が叶ったから自由になれたって喜んだのではなく、野獣の恋が叶ったことを喜んでた。
自由になるために野獣の恋愛を利用したわけじゃない。
彼の幸せそのものを心から願っていて、それが目の前で起きてみんなで喜んだ。
だってそれってやっぱりずっと愛されてたんじゃいかなって。
じゃあ、なんで野獣は愛されていることに気がつけなかったんだろう?
王子の時は若くて美しい姿で常に周囲からは賞賛の嵐で立場も特権的。それがエスカレートしていって自己中心的な考えから、相手はただの召使いで配慮のない態度や言動をなんでも許してくれる存在。欲しいものを全て与えてもらえることが「愛」だと思っていたのかもしれない。
きっと日常でもそんな勘違いは起きているかもしれない。
家族だから横柄な態度をとり。
恋人だから傷つく言葉を言い傷つける。
本当は一番大切にしなくてはいけない人に対して、一番心を配らない。
それは甘えではなく、関係への怠慢。
ついついやっているかもしれないと背筋を正す。
そうだな。
ポット夫人達の愛を違う言葉に置き換えるならなんだろう?
それは、きっと
優しさ。
𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄 𓐄
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