親の介護と自分のケアの記録 その12

親に由来すると思われる生きづらさを抱え(いわゆる宗教2世当事者という側面もあります)、2021年3月からカウンセリングに通い始めました。
これから介護などの必要が生じて親と向き合わなければならなくなる前に自分の問題を棚卸ししたい。
そうカウンセラーに伝えた矢先、母が脳梗塞で入院することに。
自分を支えるために、その経過を記録しています。


2月上旬の某日。
午前中に在宅仕事をし、午後には母を整体に連れていくことになっていた。
母が倒れて以来、母を整体に連れていくのは初めてのこと。

母は、20代後半のころにエレベーターに閉じ込められたことがあり、以来、著しく体調を崩したという。
電車にうまく乗れなくなり、仕事に通うのに、かなり早めに家を出て、ひと駅ごとに電車を降りて、覚悟を決めてまた乗って…を繰り返していたと聞いた。
(母は、沖縄戦の終戦直前に生まれている。母の母は、臨月のときに防空壕にいたという。母が生まれたのは、民間人の収容施設のように使われていた民家の一角。そのときの母の母のストレスは、ものすごいものだっただろう。こういった過酷な状況下で生まれたことによるトラウマが、エレベーターに閉じ込められたときにパンドラの箱を開けたように出てきたのではないか、というのが母なりの解釈で、私もそういうことはあるのかもしれないなと思っている)
心療内科などに通うも体調に改善が見られず苦しんでいたところ、野口整体をベースにした整体に出会い、救われたらしい。
以来50年近く、整体に通っていた(最初からずっとお世話になっていた方はもう亡くなっており、今はその弟子筋に当たる方にみてもらっている)。

それが倒れて以来、2年近く整体に行けない状況が続いていた。
行きたいだろうな、とはずっと思っており、ようやく今回連れていった。

月イチの通院時のように、実家マンション前に車を停めて母を迎えに行き、車椅子を押して車まで戻ってくる。
助手席のドアを開け、車に添うように車椅子をつける。
右半身麻痺の母が立ち上がり、ゆっくりと体を回転させて、助手席の座面の端におしりをちょこんと乗せる。
私は母の前に前屈みになって母の支えになりつつ、右足をよいしょと車の中に入れる。
あとはじりじりと母が自分で動き、母の体は車の中に収まる。
母のシートベルトを締め、車椅子をたたみ、車の後ろにしまう。

……この一連の動作にもだいぶ慣れた。
母が実家に戻ってからの数カ月は車椅子から車の移乗になかなか慣れず、毎回車の乗り降りは母子ともにスリル満点の行事となっていた。
さらに、初めの数カ月は私がペーパードライバーを脱していなかったので、通院のたびにタクシーを呼んでいた。
優しい運転手だといいのだが、「面倒な客に当たっちまったよ。チッ」みたいな態度が見え見えのドライバーに当たってしまうと、こちらも余計にストレスを感じることになった。

私は運転を猛練習し、今では高速を使って家から実家に行き、母を車椅子から車に移乗させ、病院に送る、ということにもだいぶ慣れた。

もともと運転免許を取得したのは30代半ばと遅く、取得後もなかなか上達せず、運転がものすごく怖かった。
実家には車がなく、車に接する機会が圧倒的に少なかったことも大きいかもしれない。
おまけに、私は左右感覚がやや希薄で、それも運転恐怖の要因になっていた。

初めて高速を使って実家まで行ったときは、止まれないということが恐怖でしかなく、手汗が止まらず、運転後は毎回肩が凝った。音楽や会話を楽しむ余裕なんてまるでなかった。
それが、繰り返し運転するうちに体のこわばりが徐々に取れ、音楽やラジオを聴いて、時に笑ったり一緒に歌ったりしながら走れるようになった。
アクセル/ブレーキワークがすごく微細で身体的な操作であることも、運転に慣れてようやく理解した。
もともと一人で過ごすのが好きなこともあり、ドライブは少しずつくつろげる時間に変わっていった。
この変化は、私の中でとても大きい。

…が、駐車はまだまだ下手くそだ。
特に、都内の狭い駐車場はすごく怖い。

そして、母を整体に連れていった日、ついに駐車場で事故を起こした。

初めての駐車場で、私にとっては停めづらい場所しか空いていなかった。
きちんと停める前に車から母を降ろし、駐車場の外の安全な場所まで車椅子を押し、そこで待っていてもらった。
そして、改めて停めようとするも、ものすごく停めづらい。
詳細は割愛するが、試行錯誤の挙げ句に誤操作し、後ろに停まっていた車にぶつかった。

わー、ついにやってしまった……と思った。
車を降りて確認すると、ぶつかった車にはしっかり傷がついている。

母のほうをちらりと見ると、この事態には気づいていないようだった。
深呼吸をして落ち着きを取り戻してからどうにか駐車し、母の車椅子を押した。
えーと、これは警察に届けるやつ? お相手にはどうやって連絡すれば?と頭の中はパニックになりながらも冷静を装い、とりあえず母を整体の道場へ。

母に状況を説明すると余計自分のストレスが増えそうで、母には何も言わない自分。
昔から、母に何かを話すと事態がより面倒くさくなる感じがあり、やっかいなことは一切話さない癖がついてしまっている。

整体の道場は古い日本家屋で、狭い石畳を車椅子で通るのが至難の業だった。
その上、扉の前にも大きな段差があり、やっとの思いで玄関までたどり着いた。
母の希望で、玄関先で車椅子に乗った状態のままでNさんの施術?を受けることに。
臨機応変に対応してくださるNさんを、とてもありがたく思った。

母は、Nさんとの久々の再会をとても喜んでいるようだった。

一方、私はそのそばで、「駐車場 停まっている車にぶつけた」などで検索しまくり、警察に連絡したあとに保険会社に連絡するという流れを確認。
夫に事故ったことを報告し、保険会社はどこか聞いた。
夫に任せっきりで、どこの保険会社に入っているかすら知らない自分を恥じた。

母とNさんの会話が聞こえてくる。
「病気をしたことで気づかされることも多い」「今の私は夫と娘に助けられて生かされている」みたいなことを朗々と語る母。
Nさんが、素晴らしいですねーとしきりに関心している。

聞いていて、そんなきれいなもんじゃねえだろうよ、と怒りの感情が湧き上がってしまう。
母は、物事を妙に美化して語ることがある。
本当は、もっとぎりぎりで、破れかぶれだよ。
まあでも、人に話すときには多少美化してしまうのは仕方ないことか、私が怒りすぎ?とも一人ツッコミを入れる。

その後、母を実家まで送り届けてから駐車場まで戻り、警察に電話をした。
警官が来て、調書を取られた。
一度駐車場を離れたことを咎められるかと思ったが、半身麻痺の母を乗せていたという事情を話したら、それ以上は何も言われなかった。
警官が来ている間にちょうどぶつけた車の持ち主が戻ってきたので、直接お詫びをした上で連絡先を交換することができた。
こういう事故には慣れているのか、淡々とした感じ。
最初に「けがはないですか。ないならよかったです」と言ってくれて、少しほっとした。

一連のやりとりを終え、保険会社にはネットから事故の連絡をし終えたら、どっと疲れが押し寄せてきた。
そういえば、午前中にパソコンのキーをたたいているとき、打鍵感に少しいつもと違う感じがあった(私は、打鍵感でその日の体調がわかるようなところがある)。
そのときはあまり気に留めなかったが、朝から少し調子が悪かったようだ。

帰宅して熱を計ったら、微熱あり。
子どもが寝てからまた仕事をしたりしていたら、さらに熱が上がってしまった。

その週の週末は、夫の家族で一泊のスキー旅行に行く予定になっていたが、とても雪山に行きたいと思える体調ではなく、私だけ留守番することになった。

夫と子どもは早朝に出かけたので、朝から一日中一人きりで家で過ごす。
そんなことは、子どもが生まれて以来初めてのこと。
ああ、私はこういう時間を渇望していた…と実感した。
最近はまった編み物をやりだしたら止まらなくなり、ぼんやりしながら夕方までひたすら編んだりほどいたりを繰り返していた。
天からの恵みのような時間だった。
私にはこういう時間がもっともっと必要なのだと思った。

翌日にはだいぶ復調したので、昼過ぎに家を出て、事故のお相手に送るお詫びの菓子折を買いに、近所のデパ地下へ。
バレンタイン直前の土日ということで、人がごった返していた。
コンビニから菓子折とクオカードを送り、とりあえずほっとする。
車の修理のことは、保険会社にお任せする。


2月中旬の某日。
仕事帰りに整体へ。
先日母をみてくれたNさんにやってもらう。

横になり、体に触れられ、優しい言葉を掛けられたら、そこから涙が止まらなくなった。
人の世話に追われているうちに自分が枯渇していって、カスカスのしぼりかすになったように感じることがある。そういうときの体の感覚としては、背中の上のあたりが詰まってくる、みたいな話をした(そのとき、まさにそういう状況だった)。
Nさんは、うんうん、そうよね、ほんとによく頑張ってる、と聞いてくれた。
受け止めてもらえた感覚があり、またぶわっと涙が出た。

Nさんには、以前に母との間の確執について少し伝えたことがあった。
Nさんは、そのことを話していいよ、という感じをすごく出してくれていたが、母を知っているNさんに母との葛藤について話すことに躊躇を感じ、具体的なことはほとんど話さずに終わった。
そうやっていつも言葉を封じ込めてしまう自分が悲しくなってまた泣いたが、言葉に出せなくても涙が出るのなら大丈夫、とも思えた。

帰り際、「もっとしっかり自分をねぎらって。それが宿題」と言われ、また泣きそうになる。

母が倒れてからあと少しで2年。
今の状況は比較的落ち着いているし、夫も子どもの面倒をよく見てくれている。
セルフケアも自覚的にやっているつもりだったけれど、少しずつ積もった疲労感にじりじりとやられている感じがある。

「休みが必要だ」と歌う、奥田民生の「コーヒー」。
最近脳内によく流れていたのでApple Musicで探してみたら、ライブ盤だけあった。
久々に聴いたら、沁みた。

私には、もっと休みが必要だ。
そして、どこかで休むことにまだ罪悪感を感じている自分にも気づいている。
休んでいいよ、ちょっと休もう、と繰り返し自分に言い聞かせていこう。

―――

1月に、『宗教2世』という本の刊行記念で、荻上チキと横道誠のトークイベントがあり、webでの視聴を申し込んでいた。
イベント直後に一度視聴したが、1カ月の視聴期限が切れる直前にまた視聴した。
1回目の視聴より、2回目のほうがより深く話を聞けた気がする。
タイプが全然異なる2人のやりとりは、なんだか味わい深いものがあった。
以下、そのメモ。

荻上チキ×横道誠「宗教2世を、〈流行語〉で終わらせぬために」
『宗教2世』(太田出版)刊行記念

・自助グループの価値とは、言葉を与える場であるということにある。
「そう言えばよかったのか」、「自分の体験とはそういうことだったのか」と、自分に起きたことを整理できない苦しさに言葉を与えていく。
言葉によって整理することによって、状況は変わっていなくても処理しやすくなっていく。(横道)

・「宗教の残響」という言葉
宗教を脱会しても、脱会前の価値観がいつまでも残り続ける、エコーとして響き渡る。
「信念の残響」という社会心理学の言葉があって、フェイクニュースを聞いた人が、「そのニュースは嘘だった」と知っても、フェイクニュースを信じたときの感情は残り続けるという現象を指す。(荻上)

・言葉にできない苦しみを、なんとか言葉にしようとする。
フレッシュな言葉が生まれる瞬間に立ち会える喜び。
文学研究者である自分が自助グループに打ち込んでいる理由は、そこにあると思う。(横道)

・宗教はR指定にしたほうがいい。(横道)

・自分がテレビに出て、それがYouTubeとかにアップされると、「いつまでも昔のことにこだわっているひと」みたいなコメントがつくことがある。
いちど心が壊れたらなかなか治らないということを一般の人はわかっていない。
過去の問題ではなく、これは今の問題なのだということを理解してほしい。(横道)

・宗教2世問題と、いわゆる親ガチャ問題の違いは何?と聞かれることがある。明確に違うのは、親の他に信者集団がいて、その人たちがある価値観で継続的に自分に関わってくるということ。(荻上)


過去の問題ではなく、これは今の問題なのだ、と言う横道誠さんの言葉に激しく共感した。
今年に入り、関連本の刊行やイベント開催が続々とある。
少ししんどい面もあるけれど、しっかり追いかけていきたい。

そして、休むこと。
自分をいたわること。

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