(抜き書き)「目は臆病、手は鬼」御手洗珠子

毎日新聞(2017年5月19日)掲載のコラムより ノートに書き写していたものをさらに転記

宮城県気仙沼市で手編みものの会社を経営している。編み手は地域の女性たちだ。

彼女たちは大変そうな仕事を前にするとよく「目は臆病、手は鬼」と言う。この地域の格言である。あまりの作業量に気おくれしそうなときも、ひとたび手を動かすと、手はもくもくと働き続け、いつの間にかやり遂げる。だからおじけづかずにまず手を動かそうという意味だ。山のようなカキの殻をむく、梅干しを漬けるため何十キロ分も梅のヘタを取るなど、暮らしの中にはさまざまな手仕事がある。そんな作業にかかるとき、笑顔で言うのだ。

「目は臆病、手は鬼。さあ、やっぺし」

ふと思うことがある。この言葉が大切にされてきた背景には、別の理由もあるのではないか。東日本大震災後、この地域では、将来のめどが立たない不安や、親しい人を失った悲しみを抱えて暮らす人がたくさんいた。そんなとき、料理でも編み物でも庭仕事でも、手を動かす作業に没頭することで心を落ち着かせている人は少なくなかった。手を動かすことがときに人の心を救うことを経験的に知っていたのかもしれない。

それを思うと「目は臆病、手は鬼」という格言は、大変な状況にある人に「さあ、手を動かそう。そうしているうちに元気になるよ」と励ます意味もあるのではないかと感じる。

昨今、「人工知能(AI)の登場により人間の仕事はどう変わるか」とよく議論される。予測することは大事だが、技術は日進月歩。10年たてばまた新しいテクノロジーも生まれるだろう。「人間の仕事」を考えるには、技術的変化を追うだけでなく、「人はどんなときに満たされるのか」「なにが人の気持ちを助けるのか」といった人間に対する理解もまた、より深く求められるのではないだろうか。

3年前に読んで以来、折にふれて思い出している。新聞には時々こういう宝石のような文章がしれっと載っていたりするから侮れない。

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