鳥羽和久『親子の手帖』抜き書き

 これから先の時代、ますます進行していくと予想されるのは、「総スペクトラム化社会」です。かつての親たちは、障害を健常の対極にある一種の狂気のようなものと捉え、それを忌み嫌っていました。しかし、親たちはいま、どの子どもにも、それぞれ得意なことと苦手なことがあること、そして苦手なことについては、ある閾値を超えた場合には発達障害とみなされること、そういった共通認識を持ち始めています。つまり、障害は健常の彼岸にあるものではなく、グラデーションの海を漂う、不完全な私たちの個性の延長線上に捉えられようとしているのです。このような、健常と障害の境が不明瞭になる総スペクトラム化という新しい事態は、親子関係に深い混迷をもたらす懸念がないわけではありません。しかし、親が子どもに対して、さらに自分自身に対して不完全でたよりないものを見出すときには、改めて家族で支え合い、いたわり合う意味が再構築されるはずです。皆がスペクトラム化する社会だからこそ、家族という枠組みが、これからますます重要になってくるのです。

(P129)

 私たち大人は、きっと、勉強が苦手だと思っている子に対して、安易に勉強を押し付けすぎなのでしょう。本人が苦手だと思っていることをやらせ、やっぱりそれがうまくいかないということを何度も繰り返させることは、彼らの心の大切な部分を傷つけます。大人は子どもに自尊心が大切だと言っておきながら、その大切なはずの自尊感情を幾重にも傷つけることを平気でやってしまうところがあります。そして、傷つけられた子どもたちが自暴自棄になってとんでもないことをやらかすと、それは全て子どもたち自身のせいになってしまいます。でも、そんなときに、種を撒いた大人の行為が精査されることはほとんどありません。

 苦手なことはやりたくない。例えば、運動ができないと思っている子が体育の授業で積極性を発揮できない場面、そういう仕事は私にはムリと、自分に向いていない仕事を遠ざけようとする職場。わざわざそういった例を挙げるまでもなく、私たち大人は、苦手なことはやりたくない、苦手なことを無理にやってもろくなことにならないということを知っています。それなのに、子どもにはなぜそれを押し付けてしまうのかということについて、初めから検討し直す必要があるのではないでしょうか。

(P131-132)

「精一くんはいま、勉強ができないって言ったけど、それはちょっと違うんだよ。先生はいま、精一くんと話していて感じている。精一くんはいま、先生の言ったことをしっかり理解しているし、しかもちゃんとそれについて考えた上で、自分なりの興味深い意見を発しようとしている。話しているとこんなに楽しい精一くんが、勉強ができない、本当はそんなはずないんだよ。あのね、精一くんは、勉強ができないんじゃなくて、たくさんある勉強のやり方の中で、たまたま学校や塾でやれと言われているやり方が、いまのところちょっと精一くんに合っていないだけなんだよ。正解を全部文字で書き表すような、学校や塾でやっている勉強は全て正しいように見えちゃうけど、とんでもない、そんなことはない。それは、無数にある勉強のやり方の中の一つ二つをやっているに過ぎないんだから。これ、精一くんを慰めるために言ってるんじゃないからね。先生は本気で、精一くんが得意なこと、得意なやり方がちゃんと存在しているってことを知っているから言ってるんだよ。それが学校や塾のやり方では見えないだけ。」

「でも、だからと言って、学校や塾の勉強を何もやらなくていい、という話をしているわけじゃない。精一くんは1年のときよりずっと書くのが上手になった。これは、明らかに訓練の成果だよ。この成果だけ見ても、間違いなくいままでやってきたことには意味がある。そうでしょう。でも、それでも丁寧に書くのには時間がかかる。その点は確かに精一くんはお兄ちゃんよりいまのところ不利かもしれない。でもね、それは精一くんの価値には何の影響もないからね。精一くんの価値は、先生が100パーセント保証するから。だから、自分が苦手なところを知った上で、でもこれなら自分でもできるということを見つけていくのが、これからの精一くんの仕事なんだよ。」

(P133-134)

 その日の「お兄ちゃんより勉強ができない」という精一くんの言葉は、単に「勉強ができない」悩みというだけでなく、「兄ちゃんより勉強ができない僕は、兄ちゃんよりも親に愛される資格がない」という響きを含むものに感じられました。本人自身はきっとそのことに無自覚なのでしょうが、彼は確かにそのせいで不安を抱えているように私には見えたのです。

 このように、「勉強ができない」という子どもの劣等感は、そのまま「だから、親に愛されない」という不安に直結することがあります。親は、子どもがそういう感情に苛まれがちであることを念頭に、誰それと子どもをいたずらに比較することなく、子どもの苦手自体と根気強く付き合っていかなければなりません。

 「勉強ができない」と下を向かなくてもいい。このことを勉強が苦手な子どもに伝えるのは、甘やかしでもなんでもなく、子どもが親とちゃんと心で結ばれるためには必要なことです。

(P134-135)

 家庭でも職場でもそうですが、何かがうまくいかないときに、皆が責任を誰か一人(や少数)に負わせる傾向があります。しかしうまくいかないのは、いかにその人だけのせいに見える場合であってもそうではなくて、その場を構成する一人ひとりが原因をつくっています。自分が正しいと思っている人たちが、一人を断罪しようとして犯人捜しをすること自体が、うまくいかない元凶だと考えることもできるでしょう。家族というのは、構成員一人ひとりというよりは、その関係性そのものに主体が存します。だから、家族に問題があるとしても、それを誰か一人だけのせいにすることはできません。このことをもし夫婦間で共有することができれば、困難を乗り越える大きな力となったはずです。

 もう一つ重要な指摘をすれば、おそらくこの家庭では、父に対して、母と子が共闘していたことが考えられます。しかし、家族のかたちを健全に保ちたいのであれば、親である父と母が共同して子に対峙するという構図でなければ、それはいびつなものになってしまいます。「母と子」対「父」という関係の中では、母が子を乱用してしまうことは避けられません。子どもをダシにして夫を攻撃したり、夫への不満をそのまま子にぶつけたり。それは文字通り、子を盾にして自分の身を守ろうとする所作そのものであり、しかもその所作が夫という悪役のせいで自らの中で正当化されてしまうのです。このことは家族から夫を決定的に孤立させ、一方で、子どもを強い不安に陥れることになります。子どもというのは、弱い母、自分を頼る母を簡単には受け止めることはできないものです。だって母というのは子どもにとって困ったときにいつでも舞い戻ることができるホームですから。そのホームが揺らぐことは、子どもにとってひどく困惑する事態なのです。

(P150-151)

「お父さんは、自分で選んだ学校だろ、って言ったそうだけど、でもさ、選んだのって小学校に上がる前の話だよね。お姉さんが行ってたから、自分も行きたくなったというだけの話だよね。それは本当は選ぶとは言わない。選択するというのは、自らの意志で選んだ、そのことに対して責任を持つということだよね。何かが起こってもその責任を自分で引き受けるという意味だよね。でも、小学校に上がる前の子どもに、その責任を理解し、判断する力はないよ。だから君は本当の意味で選んではいないし、ということは、それについての責任は一切ないと言っていい。それに、小学校が合わなかったことについてもしかたがないよ。だから、お父さんに対して、悪い悪いと思ってるみたいだけど、いまの話を聞く限り、何も悪いとは思えないよ。」

(P156-157)

 子どもは学校と家庭がその存在の全てを請け負わなければならない、そう親が考えてしまうと、子どもが学校で上手くいかないときに、親も子も閉塞感に苛まれてしまいます。そんなときは、地域のコミュニティーや塾や習い事といった第三の場所がその機能の一部を引き受ける、そのほうが結局のところ子ども自身も親子の関係もうまくいくことが多いのです。だから、親と子が、学校以外に話ができる場所、話ができる人を摑まえておくのは、とても重要です。しかし、残念なのは、そのことに気づいていない親が多いだけでなく、子どもの責任は親が果たすべきという世間の見えざる圧力によって、その第三の居場所の必要性を高らかに叫ぶことができないという、いまの子育ての環境です。これからもっと意欲的に子どもの居場所づくりを考える動きが広がるといいなと思います。それは子どもにとってだけでなく、いつも子ども以上に頑張ろうとしてしまう親をこれ以上追い詰めないためにも、きっと必要なことです。

(P168)

 私はこの文章(※引用者注 自分の生徒たちに向けて書いた、いじめに関する文章)の中で「いじめ」という言葉を使いませんでした。たったいまいじめに苛まれている子がいたとして、その子が自分でいじめを受けているということを認識するのは、とても苦しいことです。彼らにとって、いじめられていることを認めるというのは、自分が弱者であることを認めることと同義であり、それは二重苦ともいえる経験です。いじめていた子どもたちはよく、あいつもニヤニヤ笑っていたからいっしょに遊んでるだけで、そんなに嫌がっているとか知らなかった、と言いますが、それは決して言い逃れのための嘘ではありません。いじめの輪の中で、いじめられている子というのは笑っていることが多く、それがいかに引きつった作り笑いであっても、それがいじめられている子の自尊心を守る最後の砦なのです。そのニヤニヤがさらなるちょっかいの種になり、いじめはエスカレートします。そういう中でも必死に歯を食いしばって自尊心を守ろうとしている子どもたちにとって、「いじめ」という現実的な響きを持つ言葉は、あまりにも残酷な、心をえぐるような生々しい言葉です。だから生徒たちに伝えるとき、私はその言葉を使わずに書きました。

(P170-171)

 子どもを自然に育てる。

 これが親に求められる子育ての原型です。子どもというのは適切な手入れされすれば、あとは勝手に育つものなのですから。しかし現在の少子の時代においては、どうしても、親の注意が子どもひとりに集中しすぎる傾向にあります。そのせいで、親が子どものためにと思ってやっていることが、子どもの自由を妨げることでしかないためにことごとく裏目に出てしまう、こういった過ちを現代の親は繰り返しています。でも、ひとりに意識が集中してしまうのはもう避けがたいことなので、いまの親たちは、むしろ子どもを自然に育てるということを目的的に行う必要があります。

 子どもへのアプローチを自然に行おうと思っても、それが表面的な技巧に留まるものである限りはうまくいきません。子どもはすぐにその行為に気づいて反発するでしょう。自分の「いま」を見ずに、独りよがりの方法論を押し付ける親を、子どもは決して受け入れようとはしないのです。親はときに「自然」をさえ子どもに押し付けようとします。例えば、子どもに構いすぎたからちょっと距離を置こう、といきなり子どもに干渉しなくなる親がいます。このとき親は子どもに構いすぎたことを反省して、自然の状態にリセットすることを企図しているのですが、このことで劇的に子どもとの関係が改善することはまずありません。なぜかと言えば、子どもにとって、親のその判断と行為はむしろ不自然なものだからです。子どもはその行為に気づいて反発するか、もしくは自分が突然に親から放擲されたことに戸惑い、落ち込んでしまうかもしれません。このような小さなネグレクトは、あらゆる親子間で頻繁に起こっています。本当は、こういう時こそ親子が正面から向き合うことが必要だったのに、親はそうやっていつも方法論に逃げてしまいます。方法論に逃げるというのはつまり、子ども自体から逃げているんです。子どもとの関係を操作する主体である自らの立場を手放すことなく、しかも子どもから離れようとする、そんなことでうまくいくわけがありません。親に求められるのは、まず自分自身の内側に自然を許すということであり、その自然の声に耳を澄ませて、子どもが求めていると感じたときに、少しくらい感情的になっても衝突してもいいから、子どもと真剣に向き合うことです。

(P182-184)

 ほんの十数年前と比べて精神的に脆い子が増えた、最近、そう感じることがたびたびあります。そして、不思議なことに、精神的に脆い子の親ほど、なぜか理解のある親である場合が多いのです。そういう子の親は、子どものことを丁寧に見守っているし、さらに、子どもを自分と対等の、一人前の人格としてしっかり認めています。「良いお母さん、お父さんだね。」傍から見ていて思わず子どもにそんな言葉をかけたくなるような、成熟した親子関係がそこには見られます。

 逆説的と言わざるをえないのですが、このことから、理解のある親のもとでは、精神的に脆い子が育ちやすいのではないかという推論が導かれます。いつも親の理解があるというのは、必ずしも子どもにとって幸せなことではないのでしょう。思春期の子どもたちは、親という壁にぶち当たって、そこで考えるものです。反抗期は、子どもが親という壁にぶつかることで自我の在り方を構築していく時期であり、子どもが自立をする上で必要な過程です。親が有無を言わさずにNOと言うとき、子どもはそれに強く反発しながらも、親が理屈抜きでそんなことを言うのはなぜなのだろうと考えます。でも、理解のある親というのは、いつも理を尽くして子どもに説明するから、子どもはすべてに首肯せざるをえなくなります。でも実際のところ、このとき子どもは、親の話す内容に首肯しているというよりは、目の前の親の存在自体、その関係性そのものに対する同意を求められており、だからこそ、子どもには首肯する以外の選択肢がないのです。その結果、子どもの自由な心の動きは妨げられます。子どもはあらゆる思考実験や試行錯誤の機会を奪われ、間違えたり、時に暴走したりする可能性を初めから封じられて、常に正しさへの忠誠が求められるのです。理解のある親のもとで育った子どもたちは、そうでない子どもたちに比べると、各段に早い時期に大人になることを要請されます。その結果、思春期を経験しない子どもというのも最近は増えています。でも、思春期の子どもというのは、さまざまな怒りや葛藤を抱えているものです。そういった親のもとでは、親が壁として機能しないために、それらをどこにもぶつけることができないから、やり場のない負のエネルギーが自分の内側に鬱積していきます。それは子どもにとって精神の牢獄とも言うべきものではないでしょうか。

 さらに、理解がある親はいつも繊細な眼差しで子どもを見ているものです。でも、その眼差しは、自分の繊細さの延長上にあるものとして、まるで自分の鏡を見るように、子どもの繊細さを感受しているにすぎません。そうやって繊細なものとして扱われた子どもは、やはりどこか傷つきやすい、繊細な性質にならざるをえないのでしょう。そのような、自分が受けた傷を確認するような子育てというのは、子どもにとっては、思いの外、残酷なことなのです。

 理解ある親は、子どもにとって決して万能ではありません。むしろ、不作為の同調圧力を仕掛ける巧妙さが、子どもの自由を大きく阻害する可能性があることを見逃さないことが必要です。

(P186-188 理解ある親と子どもの精神)

 親は誰でも良い親でありたいと思うでしょう。でも、親が思う良い親が、子にとっての良い親とは限らないところに、その難しさがあります。例えば、子どもの自立を願う親は「子どもと適切な距離を取るべき」と考えるでしょう。適切な距離を取ることが、子どもの自立と幸せにつながると考え、それが親のあるべき姿だと考えるでしょう。でも、適切な距離を取るべきと考える親は、子どもとの依存関係がお互いにネガティブな影響を与えるという可能性について、初めから深い懸念を持っています。だから、適切に距離を取るという狙いをもって親が子どもに接したとしても、実際には、親が抱く関係性に対する深い憂慮ばかりが子どもに伝わってしまうのです。子どもは親の体面ではなく本音だけを鋭敏に聞き分けます。だから、適切な距離を取ることを意識的にやるのはなかなかうまくいきません。ということは、親に求められているのは、そして親が唯一子どものためにできることは、ただ子どもに近づき、心を寄せることではないでしょうか。それは、子どもが私を必要としている、その声に耳を澄まし、あなたを見ているということを伝えることです。子どもとの適切な距離などは存在しないのです。子どもの「いま」に耳を澄ますことは、ずっと心のエネルギーを使います。それは辛抱を伴うことです。それで、親はついそれを放棄して、楽な方法を選ぼうとします。だからこそ、親がそのことに自覚的になり、もっと子どもに近づくだけで、きっと子どもは変わります。

 子どもに心を寄せることは、自分自身の心を見つめることと同義です。自分自身の生活を愛おしく抱きしめられる親は、結果的に、子どもに対しても同じことをするでしょう。

 子育てを通して、私たちは幾度も、自分自身への問い直しを迫られます。自分というのは、なんて不可解でわがままで、弱くて脆いんだ、そういうことに気づかされて、そんな自分を認めたくないという気持ちにもなります。子が煩わしいと思って自己嫌悪に陥ったり、子が愛せない自分を憂えたり、子の気持ちより自分の感情を優先していることに気づいて愕然としたり。そんな、子どもをいつも傷つけてしまうような、泥にまみれた子育てをしているのに、それでもなお、親は子を愛おしく思う気持ちから、決して逃れることができません。だから親は尊いのです。

 日々のさまざまな心の動きを通して、自分を知る、自分になる。そういう人生そのものともいうべき歩みを、子どもといっしょに濃密に積み重ねることができるから、子育てというのは、本当に深い味わいがあるものなのでしょう。

(P192-193)

著者は、福岡で学習塾を営んでいるひとだという。
全く知らなかったが、書籍も扱っているような無印良品の大きめな店舗でたまたま見かけ、帯の植本一子の言葉(私たちは子どもたちのためにもう一度「大人」になる必要がある)にひかれた。
植本一子は、著書の中で時折母親との確執にふれている。
そこが自分と少し重なり、彼女のすすめる親子関係の本なら読んでみたいと思った。

著者が出会ってきた子どもと親のエピソードが淡々とつづられる。
ホラーのようだと思えるものもあった。
読みながら、かつて子どもだった自分といま親になった自分が交互に顔を出すような感覚があった。

学校の校風が合わずにつらい思いをしている小学生が、父親に「おまえの選んだ学校だろ」と言われてしまう。
けれども、著者は「君は本当の意味では選んでいないし、ということは、それについての責任は一切ないと言っていい」と言う。
ここのくだりは自分の過去を重ねながら読んだ。

私も、あることについて、母親から「あなたが選んだことでしょう」と言われ続けてきた。
そうではない、小さい子どもに親がすすめてきたものを拒否する選択肢などなかったという思いと、やはり私が選び取ったのだろうかという思いでずっと揺れていた。
だから、ここを読んで、すごく救われた気がした。

「理解ある親と子どもの精神」のところを読んで、河合隼雄『こころの処方箋』の中の一篇、「『理解ある親』をもつ子はたまらない」を思い出したので、併せて下に引用する。
冒頭では、「理解ある」親のもとに育ち、「問題のない」生徒に見えた男子中学生が下着泥棒でつかまったというエピソードが紹介される。

 子どもは成長してゆくとき、時にその成長のカーブが急上昇するとき、自分でもおさえ切れない不可解な力が湧きあがってくるのを感じる。それを何でもいいからぶっつけてみて、ぶつかった衝撃のなかで、自らの存在を確かめてみるようなところがある。そのとき子どもがぶつかってゆく第一の壁として、親というものがある。親の壁にさえぎられ、子どもは自分の力の限界を感じたり、腹を立てたり、くやしい思いをしたりする。しかし、そのような体験を通じてこそ、子どもは自分というものを知り、現実というものを知るのである。

 いわゆる「理解のある親」というのは、このあたりのことをまったく誤解してしまっているのではなかろうか。子どもたちの力が爆発するとき、その前に立ちはだかる壁になるのではなく、「子どもたちの爆発するのもよくわかる」などと言って、その実は、それをどこかで回避し、自分はうまく衝突を免れようとしているのではなかろうか。壁が急になくなってしまって、子どもたちはいったいどこまで自分が突っ走るといいのか、どこが止まるべき地点かわからなくなる。不安になった子どもは、壁を求めて暴走するより仕方なくなる。子どもは文字どおり暴走族になるときもあるし、この例に示したように何らかの意味で社会的規範を破るようなことをしてしまう。しかし、本当のところ、子どもたちは法律の壁なんかではなく、生きた人間にぶつかりたいのである。

 角力取りは、ぶつかり稽古で強くなるという。せっかくぶつかろうとしているのに、胸を貸す先輩が逃げまわってばかりいては、成長の機会を奪ってしまうことになる。もっとも、胸を貸してやるためには、こちらもそれだけの強さをもっていなくてはならない。子どもに対して壁となれるために、親は自分自身の人生をしっかりと歩んでいなくてはならないのである。

 厳密に言うなら、理解のある親が悪いのではなく、理解のあるふりをしている親が、子どもにとってはたまらない存在となるのである。理解もしていないのに、どうして理解のあるようなふりをするのだろう。それは自分の生き方に自信のないことや、自分の道を歩んでゆく孤独に耐えられないことをごまかすために、そのような態度をとるのではなかろうか。

 性ということは、思いの他にいろいろな意味合いをもっている。最初にあげた中学生が、女性の下着盗みをした意味は単純ではないが、そのひとつとして、いつも「理解ある」ふりばかりしていた両親が、息子がこんなことするのは「まったくわけがわからない」と言わしめる方策としての意味があったとも思われる。こんなとき、大人が考えるような「性犯罪」などと考えてみるのではなく、既に述べてきたような意味をもつものとして考えてみる方が適切であると思われる。中・高校生の犯す性的な非行には、このような意味が潜在していることが多い。

 子どもを真に理解することは、大変素晴らしいことである。しかし、真の理解などということは、ほとんど不可能に近いほど難しいという自覚が必要である。そんな難しいことの真似ごとをやるよりは、まず自分がしっかり生きることを考える方が得策のように思われる。

(河合隼雄『こころの処方箋』 5「理解ある親」をもつ子はたまらない)

まず何よりも、自分の人生をしっかりと生きること。本当にそうだと思う。

『親子の手帖』のあとがきに、幸田露伴の『趣味』の意訳が載せてあるのもよかった。

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