闘病

私は統合失調症という病気を抱えている。そして、ある時点からそれを治そうと努力してきた。「闘病」をした訳である。結果として、「症状をほとんど消す」という点で言えば闘病は成功した。服薬は続けた上で、ではあるが。どうやって闘病を成功させたのかというメゾットについては「藤川徳美」で調べて彼の著書を読んでいただければわかると思う。

しかし私が今回書き記すのはそのメゾットについてではなく、病気という苦痛と、そこから抜け出そうと努力するという「闘病」という行為が与えた精神への影響である。

まず、苦痛があった。病識も無いうちから、病気のせいで強い苦痛を感じ続けることがデフォルトの状態で固定された。期間で言うと中学3年生の頃から大学を中退するまで。おおよそ青春と呼べるようなものは苦痛に食い潰された訳である。通院と服薬を始めたのは高2からだが、しかし、ただ抗精神病薬を飲み続けるだけでは症状は消えないものである。それだけではなく、前述の藤川徳美式の治療法も必要なのだと、その情報を知ることが出来たのは大学を中退した後、2019年になってからのことであった。

その治療法を実践し、具体的には断糖という厳しい食事制限、高タンパク食、メガビタミンと言った食事療法を行い、ケトン体代謝が自然に行われる体質に生まれ変わるまでが、「闘病」のラストスパートであり、そこから一応のゴールには向かうことが出来た。長く長く続いた苦痛からは、完全にではないものの、ほとんどおさらばできた訳である。

しかし、それがハッピーエンドということにはやはりならない。長く長く苦痛を感じ続け、そこから抜け出すことを夢見て、努力した。努力とは食事や生活の改善であり、生存を効率化させることであった。理論によって生存を効率化させる。そして、その努力、「闘病」の成果が頭打ちになったとき、そもそも生きる意味とは何なのかという問題に突き当たり、そこに答えは無かったのである。

いや、正確には闘病が一応の区切りを見せたらすぐその状態になったという訳ではない。苦痛からある程度抜け出したあとも、無意識のうちに渇望し続けていたものがあった。逆に言うと、それが満たされないうちは生きる意味について考えることはなかった。それは、尊敬できる他者からの、疎まれを含まない、純粋な承認というものであった。幸運にもそれを得ることが出来てから、もう一段階、社会的には成長できたものである。

苦痛からは解放され、承認というものへの渇望も満たされ、そのとき初めて、私は生まれたとも言えるのかもしれない。ともかく、苦痛から逃れることと、心の渇きを癒やすことが無意識に自分の生きる理由になっていた。前者の実現には理論を理解し実行することが必要であり、ロジックに従うことが生存の実現であり、それが自分の理屈っぽさを強めた。それが無くなったとき、理屈ではわからない訳である。生きる意味というものが。宇宙や生命が存在する意味など、宗教的なアプローチ以外では全く説明できないものであるから。

おそらく、こういうことを考える時点で、まだ足りていないものがあるのだろう。それはパートナーや子供への愛とか、そういうものかもしれない。しかし、現状、それが手に入るビジョンは無いし、それほどそれを欲している訳でもない気がする。

苦痛の常態化が自分の精神を赤子にしてしまったのかもしれない。知能だけが大人の赤ちゃん。前述の「尊敬できる他者からの承認」というものも、普通は心の発育段階で、親から貰うものかもしれない。

知能だけが大人で、社会的にも大人で、働いたりしなければいけない立場なのだが、精神的には生まれたばかりの赤ちゃんなのかもしれない。さて、どうしよう、という話でした。結論はありません。

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