見出し画像

「無用な存在」をいつも愛でることができるようになれば、世界はどれだけ明るくなるだろう

「あなたは社会にとって無用な存在だ。」

こう言われて嬉しい人は少ないでしょう。そういう存在だと思われたくなくて、日々知識をつけ、スキルを付けることに邁進している人もいるかもしれません。

私は「無用」という言葉を見ると、経済という言葉が浮かんできます。生産をするというものさしを当てて数値が高いと有用、数値が低いと無用。そのものさしが全てだと思うと、目の前がずいぶん苦しい世界に見えてきます。私自身は、2年間、贈与を受け続け、気まぐれに贈与する生活を送ってきたのですが、そのものさしを当てがってくる人が身の回りにとっても少なくなりました。同時に、私自身が自分自身や身の回りの人たちをそのものさしでぶん殴ることがとっても減ってきたように思います。

無用か、有用か、という話になると思い出すのは、赤ちゃんと老人です。赤ちゃんは別に経済活動を行うわけではありませんが、赤ちゃんが笑うことによって周りの人が笑顔になるということはよく起こることですよね。もちろん、養う人(達)がいてこそ、赤ちゃんもそのように振る舞うことができると思うのですが、赤ちゃんは無用だから切り捨てよう、という発想に安易につなげませんよね。

あと、老人の例。私は以前、吉野山という所に出入りしていました。そこで出会ったおばあちゃんがとっても素敵だったのを思い出します。とある日に山に登ろうと、道を歩いていました。右手の方に家とベンチがあり、そこにおばあちゃんが座っていました。「こんにちは」と会釈をすると、おばあちゃんはにこやかな笑顔で「こんにちは」と返してくれました。やりとりはそれだけですが、とっても清々しい気持ちになったものです。

山から降りてきました。身体が疲れ、ようやく着いた〜!と思いながら坂を下っていると、左手の方におばあちゃんが座っていたベンチが近づいてきました。よく見ると、おばあちゃんはまだ座っていました。(もしかしたら、自分が通った時だけベンチに座っていたのかもしれませんが)3時間くらい座ってたんじゃないかな。そう思わせるくらいにおばあちゃんの様子は微動だにせず、おばあちゃんは遠くの山を見ながら、佇んでいました。

おばあちゃんに「こんにちは」と挨拶すると、「おかえりなさい」と返事が返ってきました。その何気ないやりとりとおばあちゃんの急がない様子はとっても印象的で、私はその姿を豊かだと思いました。

経済的には無用な存在かもしれませんが、赤ちゃんにもおばあちゃんも、私には豊かさを纏っている存在のように思います。そう、存在です。たたずむということを通して、存在している。何かができたから良いとか、できなかったから良いとか、お金になったから良いとか悪いとか、そういうものではなく、「そこにいる」ことで何かが生まれていると思うのです。

無用、有用という物差しで人(や自分)をぶん殴りたくなった時には一呼吸置いて、生きて存在していることに目を向けてみるのはどうかと思います。

そもそも、生きて目の前にいるということだけでも、とんでもないことだと思います。人生のあれこれのかけ違いが起こると、目の前の人に会うこともできていません。さらに、生きて目の前にいるんです。まだ亡くなっておらず、目の前にいる。それがどれほど豊かなことなのだろうと思います。

もちろん存在していること自体をかき消してしまうような恨みを買ってしまっている人もいます。私も恨まれているかもしれません。ですが、そういう人であっても、その人を愛おしく、大切に思っている人がいるかもしれない。その人が存在しているだけで、大切な何かを受け取っている人もいるかもしれません。そう思うと、少し、無用と有用のものさしを降ろすことができると思います。

目の前にいる人の存在を受け取ること。
その豊かさは計り知れないと思うのです。

頂いたサポートは、生活と創作(本執筆)のために、ありがたく使わせて頂きます!