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カルティベートをお金の手放し方を実験する場所にしたい

今回のカルティベート ではクラウドファウンディングを使ってみようと思っています。仮に、クラウドファウンディングを行う前に100名参加するよ、というふうにおっしゃっていただけるとすると、1口3000円で100名が1人に声をかけお金を出してもらうだけで、30万円になります。

事前にプランニングに関わる方には、お金を謝礼ではなく、カルティベートを作る遊びをしたのに、お金が稼げてしまったという体験をしてもらえたらいいなぁと思っていて、そういう意味ではクラウドファウンディングでもっと資金を調達できたらいいなと思っています。

カルティベート は従来型の見にくる・体験するだけの人を極力減らそうと思っています。観客がいなくなることを目指します。

すべての人が企画者・表現者・制作者として一緒に場を作っていく。みんなで作り出す文化祭です。(このへんに関してはまた書いてみます。)

さらには、クラウドファウンディングを行なって、日本中の文化的なパトロンの方々にお金を手放すことで文化を育てることに関与してもらう体験を作りたい。普通は見返りを求めたり、文化的な事業においてもレポートしてもいますよね。

お金を自由に使ってくれというふうにならないことが多い。

しかし、自分が実験してみたいと思っているのは、見返りを求めず、ただ全体の文化が豊かになることを願って、目の前の人たちにお金を渡してみることです。

考えなければならないのが、その人たちにお金を渡したとしても、それが常態化してしまって、自分でお金を作り出すようにならなければ、自分がパフォーマンスを行う場も、表現の制作資金を獲得することもできるようになっていきません。

自分たちの表現する自由を担保するためには、お金を回す術を培っていく必要があります。それは自分自身がこの数年で深く・深く実感し、同時にアーティストの方々の話を聞いている時に出てくる悩みとして深く共感するところだからです。

お金を気兼ねなく渡してみる実験をしようと思ったのですが、それにはモデルにしているものがあります。

仏教におけるお布施の文化です。

お布施には3種類あります。

財施とは、金銭や衣服食料などの財を施すこと。
法施とは、仏の教えを説くこと。
無畏施とは、災難などに遭っている者を慰めてその恐怖心を除くこと。
(Wikipediaより)

お金に関わることは一番目の財施です。

仏教の文化のお布施は現代の人が聞くとびっくりするかもしれませんが、お金を手放す人が感謝されるのではなく、お金を手放すことがお金を手放す人の修行になるという観点に重きが置かれています。 

たとえば京都とかでは托鉢のお坊さんたちが歩いていたりしますね。その方々は街の人たちからお金を受け取りますが、その時、お金を受け取ることに感謝を述べてはいけないそうです。お金を手放す人がお金に対する執着を手放すお手伝いをしているのだから、感謝を伝えるとその機会を見返りあるものにしてしまい、修行を妨げてしまうという考え方をされるようです。

不思議じゃ。

自分がクラウドファウンディングをする時にはむしろ感謝を伝えてしまう気がしていますが(笑)、お布施の文化は今回のカルティベートで参照したいと思っています。さらにそこを現代風のお金のあり方を作るという意識でアップデートできないかなぁと思っています。

ですが、三浦はこれまでお金について全く考えてきませんでした。そのせいか、ギリギリの収入の中で暮らしています。少し流れが変わりつつあり、金額の規模感が違う仕事がチラリホラリと発生していますが、これからお金に対しての探求を深めていきたいと思っています。

ぜひカルティベートの制作過程で、文化的なものによりよい価値付けを行いながら、健やかなお金の流れを作ることができる人やそれについて実験したい人と一緒にお金の実験をしてみたいなぁと思っています。もしそういうことに関心がある方いらっしゃったら、ぜひお声がけください!

話は戻りますが、以前、お布施的なお金を頂いたことがあります。額は10万円。めちゃくちゃ驚きました。

『プロジェクトが育っていくための資金にしてください』と伝えられ、いただいたのです。プロジェクトをうまく育てることにつながったかは甚だ疑問(笑)なのですが、そのお金もあって、今まで食いつないでこれました。(本当にありがとうございました!)

そのプロジェクトは形を変えながら、育っていっています。だからその方が思っていった方向なのかはわかりませんが、すべて繋がって、いまの進行していっています。

やっと物事を作っていこうという覚悟が自ずと定まってきたので、今後の活動の中で逆に返すことができるタイミングがくるかもしれないと思っています。ただ、その方からはそのお金を返してほしいというプレッシャーは全く感じないのです。(ちなみにその方はお坊さんです。)

そのお金の使い方には驚きました。そして、そういうお金の使い方ができたらいいなと思ったのです。

見返りを求めるということは、お金を渡した時の成果物か生み出されたものが、何かしら見返りを求めている人に対して意味を為す必要があります。その意味というのはお金になって返ってくるとか、体験がもたらされるとか、それによってその人の評価が高まるとか、そういうメリットをもたらすようなものが想定されているのでしょう。

しかし、その方からはそれを感じることがなかったんです。

それ以降もずっと関わりがあるし、「あの時お金をあげたから〜〜」と言われたことは一度もありません。

自ずから生まれていくものを大事にするお金の渡し方があるのだなと学びました。

単純にそのお金のやりとりの仕方には感謝しています。(相手のお布施という意味では感謝しなくていいかもしれないけど)

じゃあカルティベート でどういうことができるんだろう?ということが今考えていることです。んー、どうすればいいんだろうな。

文化作りの担い手の方々に自ずから湧いてくるアイデアやすでに持っている技術を活かして、お金に変えることもできるし、お金に変えずに徹底的に遊ぶという選択もできるようになってもらうために三浦はどういう貢献ができるだろう。それを日夜考えています。

まだ具体的なアイデアは出てこない。でもそのうち出てくるでしょう。その時が楽しみです。     

資本主義の中だけで生きてたまるか。資本主義のお金の交換のあり方を器用に活用することができる方法を今後も模索していきたいなと思いました。

自分のビジョンの源泉の1つは、自ずから湧いてくる気持ちを活かして生きている人たちがたくさんいる世界を見たいという気持ちです。

そういうことができるために耕す(Cultivate)していけるものはたくさんですね。

ちなみに、お布施の中の3番目、無布施についても超大事だと思っていて、それはカルティベートの場の設計思想としても入れ込んでいこうと思っています。

文化的なものを起こしていく時に、お金は課題になるポイントですが、同時にこころのあり方もポイントになると思っています。お寺で企画を行いたいのは、そういう心のあり方に目を向けたいなと思っているからです。そちらについてもまた文章を書こうと思います。ー

今回は雑多なお金についての話でした。いつもながらまだ未確定の企画の思考メモを読んでくださってありがとうございます。

追記:鷲田清一さんの文章をたまたまネットで見て

「〈私〉探し」の強迫から逃れる——『じぶん・この不思議な存在』

この記事に書いてあること、お金の仕組みを検討する上でとても重要なんじゃないかという直感が働きました。

特にこの箇所です。

そういえば「責任」の対極にあるようにみえる「自由」という語も、liberalの意味を辞書で引けば、「自由な」とか「自由主義の」という、だれもが知っている訳はたいてい4番目にしか出てこない。
   
一番目はどの辞書でも「気前がいい」である(このとき名詞はlibertyではなくliberalityとなる)。例文を一つ挙げれば、He is liberal of his moneyは「彼は金離れがいい」ということだ。

お金に執着していたら、金離れはもちろんよくならない。(でもお金への異常な執着があるから起業家が生まれてくるケースは多いと思うので、執着はいいとも悪いとも言えないし、ただそういう現象なだけ。)

上記の部分で面白いと思ったのは、個人という概念や自由という概念を扱う時にLIBERALという言葉が出てきたことです。そのあたりはカルティベートで絶対に扱いたいなと思うテーマなので、引き続きカルティベートの仕組みに反映される前の思想のリサーチを続けてみます。

ではでは。

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