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fuwatari 経済。思索のメモ。

fuwatari 経済にほんの少し慣れてきた感じがする。布は渡る。後追いでお布施としてのお金も渡る。今の感覚を抽象的な言葉のメモとして残します。抽象的な言葉は生きている実感の翻訳で、翻訳精度は考えずにひとまず放出します🗒

このところ意識しているのは、創作の流れに自己を開くこと。私の場合は、頂く布で作品を作ろうと思っているので、基本的に創作の流れは外からやってくることになる。やってくる流れを邪魔しないことが大事。23年の3月の全国での布募りでは、やってくる流れとしての「布を贈るよ」という連絡に対してレスポンスを返していく。あまり思考を介在させずに自己をほぐすイメージで。実際に物を受け取る時点は未来だけれど、その瞬間は花火のように今の瞬間に起こる。今、その火花が継続するようになった。布を受け取りにいくというふるまいに転化し、受け取りが実際に起こるようにパフォームする。

同時に食べること、全国を巡ること。そこに自己が開かれる生活の糧の調達を怠ると死ぬ。布ばかりがあっても食えるわけではない。しかし、食べ物がいくらあっても、創作が起こるわけではない。ただ、生き延びることができる時点で、生活の術としての創作は結果的に起こっている。

布を求めることは創作の流れを迎え入れることで、少しだけ流れの属性が異なる。流れの質を感受して、生活の流れというよりも、創作の流れに委ねていく。



布を求めて動く。そうすると、時々の出会いで食べさせて下さることが発生する。もしくは、食べ物自体を下さる人が出てくる。そうすると、結果的に生きて、食べることにつながる。

お金がやってきた時には、それは生活の糧であり、創作の糧である。心が動く働きが起こる布の流れというパフォーマンスを受け入れる方法を学んでいきたい。自己が生かさられことが生活の糧の巡環。他者に振り分けられていくことが創作の糧の巡環。作品創作が贈り物になりうるかは、観測者の方々に出会えるかどうか次第だけど、その可能性への架け橋を増殖させていくことが自分の仕事。

贈り物を購入したり生み出すためにお金を投じる。創作の流れを迎え入れ、自己の中で合気道のように流れを増幅させる役割を演じれば、流れが起こり、流れの周囲に対流が起こる。演じることはPLAY、遊び。遊びはパフォーマンスの受容。パフォーマンスは自己が行うことよりも、むしろ、関係性の中で表出するもの。パフォーマンスを迎え入れることができるように、自己を調える。

創作の流れに振り切ることは人生の命(時間)を賭けること。多少のリターンを得るための賭け事ではなく、惜しみない賭け事を行っていく。絶命してしまうことは今のところ考えていないし、そこまでのラディカルさは持てないが、差し出せるものを差し出していきながら、0(空)になる回路を調えるべし。かけがえのなく、再演も再現もできない、生き延びる術を引き続き開発していく。

fuwatari、布渡り、不渡り。パフォーマンスはすでに起こっていて、それを渡らないようにしている自己を空にしていくことを大事にする。パフォーマンスは「全: 0=∞」、自己も「0=∞」。

誰にも理解されないと思うけど、未来の自分が過去の私を解読するための手がかりとして、メモを残します。

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