ガウスの法則はまちがい

何年前だったか、物理の大学入試問題で出題ミスがあったというので、救済措置だなんだと話題になった。私はその詳細を説明できるほど内容を理解できたわけではない。そもそも現役の物理学者であるとは言え、大学の入試問題をすらすら解ける自信はないので偉そうに論評する立場ではない。ただ、問題作成を担当されている先生方のことを考えると大変だなあと同情したくなってくる。

入試問題には正しい答がないといけないことになっている。抜け穴でもあった日には出題ミスで大騒ぎになってしまう。だが、物理は数学とは違って、いま正しいと思っていることが将来も正しいという保証はどこにもないので、どの問題も前提条件をよほど正確に書いておかないと落とし穴にはまる可能性がある。物理学では、あらゆることは実験で検証すべきことであって、高校の教科書にのっている法則であってもある限られた条件のもとで、ある限られた精度で実験的に検証されたものにすぎないのだ。

今回から新しい話題に入る。クォークの漸近自由性というやつだ。これから少しずつ量子色力学についてその気持ちを語っていくことにする。その前にまず、似たような理論として電磁気学のことを考えてみよう。

ガウスの法則というのをご存知だろうか。ある電荷を取り囲んで包むような曲面を考えると、その曲面を貫く電場の総和は曲面によらずに等しく、電荷の大きさで決まる。というやつだ。ちょっとややこしい言い方になってしまった。よくある説明では、電荷からは決まった数の電気力線というやつが放射状に伸びていることになっている。そいつは他の(逆符号の)電荷に出会わない限り消えないので、元の電荷の近くでも遠くでも本数は変わらない。遠くにいけばただその密度が薄くなるだけだ。

電荷がつくる電場は、ガウスの法則を使って正確に計算することができる。クーロン力といって、電荷からの距離の2乗に逆比例する力も導くことができる。これらは高校物理の教科書にも書いてあることで、法則という以上正しいと信じている人が多いのかもしれない。しかし、大学院まで進んで量子電磁力学を学んだ人は知っていることだが、ガウスの法則は間違っているのだ。いや、正確に言おう。ガウスの法則はいつでも成り立っているわけではない。電荷のごく近くまでいくと電気力線は増えているように見える。

間違いといってもけなすつもりはまったくない。ガウスの法則はいまでも量子電磁力学(QED)の基礎方程式の一部になっているくらいで、QED自体は驚くべき精度で実験的に確かめられている非常に手堅い理論だ。にもかかわらず、ガウスの法則をそのまま解釈すると不正確になる。なぜか。

電磁気学というのは、ある種の「場の理論」だ。電場や磁場は空間全体に広がっている「場」で、空間の各点で増えたり減ったりいろんな方向を向いたりする。「場」は空間の隣の点とつながっているので、ある点で増えると隣の点でも引きずられて増える。これが波として伝わって電磁波ができたりもする。

さて、空間のある点に電荷を一個置いてやると、その周りには電場が生まれる。これがガウスの法則だ。この電場の中に他の電荷を置くと、今度はこの電場による力を受けて電荷が動き始める。電荷が動くとその周りの電場も動いて...、というふうに電荷と電場は互いに影響を及ぼし合うわけだ。ここまでは電磁気学だが、ここに「量子」をつけると少し話が変わってくる。

とても奇妙なことだが、量子論では普通は起こりえないことがすべて起こると考えてその影響をすべて重ね合わせた上で状態が決まる。起こりえないことというのは、例えばいま私の手のひらに静かに乗せたボールが、何の力も加えないのに勝手に部屋の中を飛び回って一瞬のうちにまた手のひらに戻ってくるようなことだ。普通に考えると、これはエネルギーの保存則も運動量の保存則も破るめちゃくちゃな事態なのだが、量子論ではこの種のめちゃくちゃをすべて取り入れた上で現在のボールの状態が決まる。実際には、ありとあらゆる運動の可能性の中で、手のひらでじっとしている可能性が圧倒的に大きいので、この例の場合には他のことは起きない。おおざっぱに言うと、いろんな運動の影響は、その運動にどれだけ余計なエネルギーが必要かによって決まる。余分に必要なエネルギーが大きいと、その運動はほとんど考えなくてもよくなる。そういう仕組みだ。

電荷と電場の話に戻ろう。電荷を置くとガウスの法則にしたがって電場ができる。ここまではいい。量子論を考えると、さっきのあり得ない運動に相当するのは、例えばこの電場が突然電子とその反粒子を生み出して、またすぐに消えて元に戻るような状況だ。電子とその反粒子は質量をもっているので、こういうことを起こそうとするとアインシュタインの $${E=mc^2}$$ にしたがって余計なエネルギーが必要になる。だからその影響は小さいのだが、それでも考慮に入れないといけない。この影響が特に顕著になるのは、そもそも電場が大きなエネルギーを持っているとき、つまり電荷の非常に近くで電場が強くなっているような場所でだ。そもそも大きなエネルギーがそこにあるので、余計なエネルギーで不利になる割合も小さくなるわけだ。

量子論を考えたおかげで、通常のガウスの法則とは違うことが起きた。そもそもガウスの法則には電子とその反粒子が勝手に生まれるようなことは想定されていないのだから、それももっともなことだ。ガウスの法則からのずれが顕著になるのは、電子の質量で決まる波長よりも短い距離でのこと。1ナノメートルより小さな距離での話だから、普通は気がつかないのも無理はない。しかし、素粒子実験ではそういう距離にまで粒子を近づけることができるので、それが問題になってくる。こういう短距離では、電磁気力は少しだけ強くなることがわかっている。加速器実験で作ることができるエネルギーだと、せいぜい10%程度なのだが、それでも検証可能な大きさであって、ここでも理論的予想と実験結果は正確に一致している。

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