陽子の大きさがおかしい

量子力学の原理は変なのでいつまでたってもわかった気はしない。理解することはできないけど、慣れることはできる。理解するのと慣れるのは同じかというとそうでもないかもしれないが、慣れるために同じことを何度も繰り返そう。電子はふわふわと漂う波だ。そのエネルギーは波の波長で決まっていて、波長が短くなるとそのエネルギーは大きくなるのだが、例えば原子の大きさもこのことを考えると理解できる。原子核はプラスの電荷をもち、電子はマイナスの電荷をもつので電気の力で互いに引き合う。だから放っておくと電子はどんどん原子核に引き寄せられてしまいそうだが、この波の性質のおかげでそうはならない。電子の波が原子核の近くにあまりに集中すると波長が短くなって余計なエネルギーを必要とするため、どこまでも引き寄せられたりはしない。電気の力の強さと量子論としての波の性質の間の綱引きで原子の大きさは決まるわけだ。

原子のなかでは、原子核のまわりを電子が周回している。このことは中学ですでに教わる。飛び回る電子と原子核のあいだの距離はおよそ $${10^{-10}}$$ メートルであるのに対して、原子核(いまは一番簡単な水素原子を考えることにしよう。この場合、原子核とはつまり陽子のこと)の大きさは $${10^{-15}}$$ メートルなので5桁も違う。10万倍だ。電子の気持ちになって考えてみると、陽子ははるか遠くに見えるもので、その大きさなんてほとんど見えやしない。陽子の大きさを測定するには何か別のやり方が必要になるのはこのせいでもある。

陽子と電子の間の距離は電気の力の強さと、波としての電子の性質のおかげで決まっていると言った。実はここにもう一つのファクターがある。それは電子の質量だ。電子が軽いと比較的びゅんびゅん飛び回りやすいために、陽子から遠くを周回することになるだろう。逆に重いとそれほど元気よく飛び回れず比較的近くにとどまる。つまり、重い電子があれば陽子の近くを飛ばすことができるはずだ。

そんなことを言っても電子の質量を勝手に変えるわけにはいかない。ただ、自然界には質量を除いて電子とほとんど同じ性質をもつ素粒子がある。これをミューオンといって、その質量は電子の200倍。寿命があってマイクロ秒という短い時間で壊れてなくなってしまうのが難点だが、急いで実験をすれば陽子がミューオンを捕まえた原子を調べることもできる。普通の原子よりも200倍も陽子の近くを回るので、その大きさを感じることもできるはずだ。

電子をミューオンで置き換えた水素原子を作る。ちょっと普通とは違うこの水素原子を使って、そのエネルギー準位を測定する実験をした人がいる。ミューオンは電子より200倍ほど重いので、エネルギー順位もその影響を受けて変わってくる。おおざっぱに言うと束縛エネルギーが200倍増えるだけだが、詳細を見ていくと相対性理論による補正などの大きさが変わるはずで、ここを調べると量子電磁力学のよい検証になるだろう。さらには、ミューオンは比較的陽子の近くを飛ぶので陽子の大きさの影響も受けるはずだ。これを読み取ることで間接的に陽子の荷電半径を決めることができる。

2010年に現れた実験の結果は驚くべきものだった。0.842 フェムト・メートル。陽子に電子の波をぶつけて散乱を測定した実験結果 0.88 フェムト・メートルと比べるとずいぶん小さい。誤差を含めて比較しても、誤差の大きさの5倍は違っている。これほど基本的な量に矛盾があるということで、専門家の間では大きな問題になった。こういうことがあると、すぐに物理法則の書き換え(こういうのを新物理と呼ぶこともある。下手な宣伝文句のようで気持ち悪い)に結びつけようとする人がいる。可能性としてはもちろん否定できないが、他に異常なことが見つかっていないなかでこれだけがずれるような物理法則を考えるのも不自然な感じは否めない。

この問題は2019年になってさらにこじれてしまった。電子の波を陽子にぶつける実験、さらに陽子と電子の(つまり通常の水素原子の)エネルギー準位を精密に測定する新しい実験は、2010年のミューオンによる実験を支持する結果を出したのだ。以前の実験とのずれの原因は不明のまま。ミューオンによる実験の結果を知っているせいでバイアスが働いたのではないかと疑いたくもなる展開で、かえって謎が深まってしまった。

素粒子物理は巨大科学かつ精密科学で、いろんなものが驚くべき精度で測定され検証されている。そう思われがちなのだが、話はそれほど単純ではなくて、むしろ理論的に難しすぎて手に負えない問題が山ほどある。その多くは「ハドロンの不定性」と呼ばれるもので、ここでいう陽子の内部構造のように、ある種類の素粒子の性質に関わるものだ。強い力の問題と言ってもよい。それを説明するのが本稿の目的なのだが、道はまだまだ遠いようだ。急がず少しずつ考えていこう。

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