Wボソンの質量が...

7シグマ!

Wボソン質量の新しい測定が発表され、大きな話題になっている。なにしろその結果は、素粒子標準模型が予想する値から誤差の7倍もずれている。過去30〜40年も標準模型の綻びを何とか見つけたいと躍起になってきた素粒子物理の業界にとっては、ついにその動かぬ証拠を見つけたという大ニュースだ。もしそれが正しければ。

もしこの結果が正しいとすれば、例えば標準模型を超えるこんな模型が考えられる、などという論文はこれからいくつも現れることになるだろう。ただ、アンケートを取ったわけではないが、今回の結果を額面通りに受け止める専門家は多くないだろう。何しろ、標準模型の予想からずれているという以前に、これまでの実験結果ともずれているのだ。(例えばここを参照。)もし今回の結果が正しいとすれば、まず問題になるのは、なぜ以前の実験は間違っていたのかということになる。ここをはっきりしておかないと何を信じていいのかわからなくなる。

私は素粒子実験の専門家ではないので、論文の詳細について意味のある論評を加えることはできない。ただし、これは難しい測定だというのは想像できる。Wボソンの崩壊は、ミューオン1個に加えてニュートリノ1個を生成する。そして、ニュートリノは測定器のなかでは何の反応も起こさずに抜けていってしまう。通常、質量の測定は崩壊生成物のエネルギーと運動量をすべて測定したうえで足し合わせ、Wボソンがもっていたエネルギーと運動量の関係を調べることで得られる。今回はニュートリノが見えないせいで、教科書通りに行うことができない。ではどうするかというと、同じ衝突イベントのなかで出てきたすべての粒子を測定して、消えてしまったと思われるエネルギーと運動量を算出し、それはニュートリノによるものだと仮定して質量決定に使う。ここで問題なのは、文字通りすべての粒子を集めてくる必要がある点だ。通常、クォークがかかる衝突では、数多くのハドロン(クォークの束縛状態)が生成され、そのエネルギーや運動量もまちまちになる。粒子測定器では、ある程度以下の運動量の粒子は測定が難しいために、そのいくつかは見逃すこともある。ある割合でそういうことも起こると想定して、シミュレーションを使って補正するのだが、今度はそのシミュレーションは正しいのかが問題になる。今回のWボソン質量測定は、結果の精度があまりによいために、こういう詳細も問題になりそうに思える。

今回の測定を発表した研究チームは、米国フェルミ国立加速器研究所の加速器テバトロンに設置されたCDF測定器のグループで、その実力は高エネルギー実験の分野では世界のトップレベルと言ってもよい。その彼らが10年以上の時間をかけて解析を進めた。素人の私が考えるようなことは当然考えたはずだし、それ以外のあらゆることも考慮して、自信をもって誤差を評価しているはずだ。

しかし、とにかく実験結果は互いに矛盾している。理解しないことには先に進めない。テバトロン加速器はすでに10年前に運転を終え、すでに解体済みだ。さらに実験を進めて検証することはできない。現在それが可能なのは欧州の大型ハドロン衝突器 LHC ということになるが、こちらもそう簡単には進まないだろう。なぜかというと、この加速器は性能が良すぎるためだ。複数の衝突が同時に起こってしまう。(もともと、できるだけ多くの衝突を起こしたい!)おかげで、先に問題にしたような「見えない運動量」を同定するのがはるかに難しくなってしまうのだ。同時に起こった複数の衝突を一つひとつ仕分けするという面倒な作業が必要で、それはいつも完璧にできるわけではない。そういう誤差を縮めるのは難しい話になりそうだ。今回の結果を検証して問題を理解するには時間がかかってしまうかもしれない。

Wボソンの質量とは

せっかくだから、ここでWボソンとはいったい何者で、その質量はどこからくるのかをまとめておこう。

Wボソンは、"weak boson" を意味する。弱い相互作用における光子に相当するもので、力を媒介する役割をもった重要な粒子だ。弱い相互作用というのは、原子核の中ではたらく二つの力(強い相互作用と弱い相互作用)の一つで、原子核の放射性崩壊を引き起こす。より基本的なレベルでは、ゲージ場の量子論という理論にしたがっており、それが素粒子標準模型の部品の一つになっている。

光子と似た粒子なので、本来Wボソンは質量ゼロのはずだ。ゲージ理論という理論の枠組みでは、基本となる対称性が質量ゼロを要求する。ここを勝手に変えるわけにはいかない。そのため、当初この理論が弱い相互作用に使えるとは思われていなかったのだが、南部陽一郎による「自発的対称性の破れ」という考えによって突破口が開かれた。理論は対称性をもっているが、現実の世界では自然がエネルギー最低の状態(これを真空と呼ぶ)に落ち着いたときに対称性が破れた状態が実現する。これならWボソンは質量を得てもよい(ヒッグス機構)。したがって、その質量は対称性の破れの大きさに比例することになる。つまり、Wボソン質量の測定は、真空における対称性の破れの大きさを測ることでもある。

素粒子物理では精密化が進んでいる。Wボソン質量とは大枠こういう理解でよいのだが、より細かく考えると、量子効果が重要になってくる。例えば、Wボソンが仮想的にトップクォークとボトムクォークを生成・消滅を起こす過程、あるいは仮想的にヒッグス粒子を生成・消滅させる過程などを考えると、その質量は3%ほどずれてくることがわかっている。さらに精密化するには、それ以外の効果もすべて考えないといけない。そうして得られた予言値と、実験結果が0.1%ずれているというのが今回の結果だ。どれだけ微妙な話をしているかがわかっていただけるだろうか。このレベルでは、まだ見ぬ新粒子が量子効果にあらわれる可能性だってある。人々はその可能性に興奮しているというわけだ。この問題はどう決着するのだろうか。

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