左右対称、でないといけないのか?

ヨーロッパからきた友人と野球のテレビを見ていたときのこと。彼は、なぜバッターは打ったら必ず一塁に、つまり右に走らないといけないのか納得できないようだった。なぜ、と言われてもそう決まってるんだから仕方ない。そう言っても食い下がってくる。俺の愛するサッカーにはそんな妙なルールはない。そりゃそうだ。では聞こう。サッカーのピッチやゴールはなぜ左右対称でなければならないのか。自然界の法則に左右対称性は、ない。少なくとも一部では完全に壊れている。

弱い相互作用がごちゃごちゃしていてうんざりだという話をしていたんだった。脱線ついでにパリティの破れについて書いてみたい。

電子やクォークといった素粒子は(それに陽子・中性子も)スピンといって自転する性質をもっている。ただし、その回転速度は量子化されていて、ある決まった大きさしか許されない。右巻きか左巻きの区別を除いては。つまり、電子には2種類あって右巻きの電子と左巻きの電子がある。回転には軸を指定しないといけないが、この軸は電子の運動方向にとっておこう。ネジを回す向きに回る電子と逆ネジの向きに回る電子があるわけだ。電磁気学によれば、電荷をもった粒子が回転すると磁石になる。回る向きが逆の電子は極性(N極とS極)が逆の磁石ができる。ここまではいいだろう。

弱い相互作用がおそろしいのは、この2つの電子のうち、左巻きの電子だけに選択的に働くということだ。右巻きの電子には見向きもしない。電磁気力ではそんなバカなことは起こらない。電荷をもった粒子には等しく電磁気力がはたらく。弱い相互作用はそうではなく、左巻きだけが「電荷」をもっているわけだ。電荷と区別するために「弱荷」とでも呼べばいいだろうか。

通常、はたらく力が異なる素粒子には別の名前がつけられる。電子には電磁気力がはたらくが、強い相互作用ははたらかない。クォークというのは、強い相互作用がはたらく粒子のことをいう。電磁気力も強い相互作用もはたらかない粒子にはニュートリノというのがある。これらは性質が全然異なるので、違う名前で呼ばれるのはもっともだ。だが、ここにおかしなことがある。電子もクォークも、そしてニュートリノも弱い相互作用を感じる。ただし左巻きだけ。じゃあ右巻きはどうしてくれる。左巻きと右巻きは、弱い相互作用に関しては性質がまったく違うんだから別の名前をつければよさそうなものだが、右巻きと左巻きは(質量が有限だと)自然に混ざるのでそうもいかない。

宇宙が始まった当初なら話は別だ。右巻きと左巻きの粒子は混ざることなく飛んでいたはずで、その頃は右と左は別種の粒子に見えたことだろう。それなら別々の名前がつけられたに違いない。残念ながらまだ人類は生まれていなかったのだが。

実は、左巻きだけにはたらく力というのは、ゲージ理論にとっては厄介者だ。そのままだとゲージ理論のもっとも重要な性質「ゲージ対称性」を壊してしまうことがわかっている(軸性アノマリーと呼ばれる)。ゲージ理論は素粒子のしたがう法則の根幹をなすものなので、弱い相互作用はこの意味でもガンだ。ところが、このアノマリーは電子とクォーク、それにニュートリノがそろうとちょうど相殺して消えるようにできている。奇跡的に。だから、例えばニュートリノだけを抜いた理論というものは存在すら許されない。なぜそうなのかは誰も知らない。だが、何か深い意味があるに違いない。例えば、電子とクォークとニュートリノは元々すべて同じものだったと考える大統一理論を考えたくなる理由がここにある。

脱線がさらに広がっていきそうなので、このへんで撤退することにしよう。

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