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『ガリヴァー旅行記』(10/12)

 先日も、くどいくらい書いてしまったが、医療用のベッドを借りてから、劇的に体調が改善した。
 ただ、体が物理的に動かない事実そのものは変わらない。高校生のときに読んで強烈な印象を受けた本にユクスキュル『生物から見た世界』があるが、あの中で、カタツムリが、一定以上のスピードで出入りする棒を、「停止した棒」としてしか認識せず、平然とその棒を渡ってくるという話があった。
 俺の体を流れている時間の速さが、カタツムリのそれのようにゆっくりしたものに変わっているのではないかという気がする。
 しかし、そうなると、気になってくることがある。
 家族とのあいだに時間の流れの齟齬を感じないことである。
 どうも、会話をしていても、俺の鈍い反応と、大差のない鈍さなのだ。両親はまだ50代前半、妹にいたっては20歳になったばかりだというのに、こんなにぼんやりしていて、世の中のスピードと合致しているのだろうか。
 言うまでもなく、両親は電車に乗って仕事に出かけ収入を得て、妹も大学で講義を受けサークル活動をし、アルバイトもしている。俺はと言えば、その収入に頼って、食事や洗濯も一切やってもらっている。
 いくら俺がカタツムリのようにぼーっとしているとは言え、その事実を忘れてしまったわけではない。ただ、その事実を改めて確認すると不思議な感じがするくらい、俺と一緒にいるときの家族が、あまりにもぼんやりとした人々に見えるというのも、また確かなのだ。
 それが何故か、掘り下げて考えてみるつもりはない。ただ、俺が、今述べたような感想を家族に言ってしまったのは間違いだったと反省している。
 最初は、妹が、食卓で、自分が口をつけたコップを何度も「あれ、これ、私のだっけ」と確認するので、「ポンコツじゃないか」と俺は言ってしまった。
 両親が話しているときにも、あまりにもお互いの理解が鈍く、話がぜんぜん進まないことがあって、俺は急に不安になり、「おじいちゃんおばあちゃんみたいになった」という感想を口にしてしまった。
 家族はそれぞれ露骨に不快感を示したので、そのあとは冗談めかして同じようなことを言い、ごまかしたのだが、やはり今思うと、俺は何も言うべきではなかった。
 今日も、母が電子レンジで、インスタントスープを、空気穴を下にして温め、盛大にこぼすという出来事があった。これは以前もあったことで、母もそれを覚えていたから注意したはずなのに、注意した結果、やはり穴を下にしてしまったのだと言う。母は「こんなこともできなくなった」と落ち込んでいたが、その落ち込みは、俺が「おじいちゃんおばあちゃん」と言ったことに由来しているだろう。一度発せられた言葉の影響は取り返しがつかない。
 俺が言うべきでないことを言ったのは、家族に対する「甘え」に他ならない。足腰が立ちづらいのは事実だとしても、まだ何もできなくなったわけではないのだ。人に依頼していることを当然と考え始めたら、それこそ俺自身の自我が保てなくなるときだろう。『イリアス』に描かれたアキレスの姿をもう一度思い出してみたりする。

 ところで先日は『ガリヴァー旅行記』(平井正穂訳、岩波文庫)を読んだ。
 それまでより広い、足の延ばせるベッドが来たときに、小説冒頭、目を覚ましたガリヴァーが小人たちに捕まっていた場面とのシンクロニシティを感じたので、読みはじめたのはちょうどその頃であったはず。
 以後、ゆっくりと時間をかけて丁寧に読んだ。食事のたびに、家族にそれまでに読んだ部分の話をしたのも覚えている。
 『ガリヴァー旅行記』は四部構成で、小人国、巨人国の対になっている、一部、二部までは、ひたすらその面白さに夢中になっていた。ところが、第三部を読んだあたりから不安な気持ちになり、第四部フウイヌム国のエピソードは、完全に恐怖小説のような気分で読んでいた。
 それこそ紋切型の感想になるが、あまりにも強烈な厭世観に満ちたスウィフトの「毒」にやられてしまったのである。
 人間の醜悪な一面への風刺を超え、一種の虚無主義にまでいたる、恐ろしい本である。ブルトンの『黒いユーモア選集』にも冒頭にスウィフトが引かれていたが、実際、スウィフトほど「黒いユーモア」という語がふさわしい作家もいないだろう。特に第四部には一切の希望が無い。
 俺は、冗談でなく具合が悪くなってきて、このままでは、虚無的にしか世界が見れなくなるという切迫した恐怖を感じた。
 ただ、『ガリヴァー旅行記』と似たような作品として、モンテスキュー『ペルシア人の手紙』を思い出した。どちらも非ヨーロッパの視線からヨーロッパ文明を風刺した作品で、しかも、作者がどちらか一方の立場に立つわけではなく、二つの立場が相互に足元を崩し合うような「合わせ鏡」の構成を持った奇妙な本だからだ。今、ネットで検索したら、『ガリヴァー』が1726年、『ペルシア人』が1721年に初版発行だそうだから、時期的にも非常に近い。
 しかし、『ペルシア人』を読んだとき、俺は不思議な感動にとらえられたものの、『ガリヴァー』的な恐怖や絶望は感じなかった。
 これもまた雑で頭の悪そうな話になるが、よくイギリス人が「冷笑的」なのに対し、フランスには、より人間への愛をもった「ユマニスム」的伝統があるという国民性が云々される。
 この手の話は、あまり本気で考える気にもならなかったのだが、『ガリヴァー旅行記』に慄然とした俺は、やはり大学でフランス語を選択したのは正しかったんじゃないかと思った。
 映画『ゲームの規則』でのルノワールの名言「恐ろしいのは、すべての人間の言い分が正しいことだ」という一句が、フランス的精神を象徴するものとして引用されていたことがある(中条省平『フランス映画史の誘惑』)が、こういう言説を真に受けたくなってくる。あの映画は一時期、俺の心のベストテン第一位を占めていた。俺にはやはり、フランス的なユマニスム精神が性に合っているのだ。
 すぐにでもモンテスキューを読み返したかったが、手の届くところにないので、困った。
 買い直すのは嫌なので、古本屋で、富山太佳夫『『ガリヴァー旅行記』を読む』(岩波セミナーブックス)をネット注文した。
 富山はスター的な英文学者だが、学者のちゃんとした解説を読めば、解毒作用があるのではないかという期待があった。
 それが大当たり。
 前に、川島重成『『イーリアス』ギリシア英雄叙事詩の世界』という本を、入門書の名著として紹介したが、それに匹敵するほど、俺としては読んで良かった本である。偶然ながら、どちらも「岩波セミナーブックス」の一冊。
 富山太佳夫の本は、少し古いものだが、当時『ガリヴァー旅行記』を新訳しようとしていた富山が、そのための調査の一部を紹介しながら『ガリヴァー旅行記』の読み方をレクチャーするもの。
 この解説本のすばらしいところは、同時代の史料を参照することで、現代の目から見たスウィフトの「異常性」を宙吊りにしてみせるところである。
 前にスウィフトの強烈な「毒」という書き方をしたが、ここにすでにバイアスがあり、幼少期に女性嫌悪に陥ったとか、晩年は発狂したとかいう、スウィフトの伝記的事実が反映されている。富山はまず、その事実がスウィフト自身による誇張を含んでいることを確かめ、『ガリヴァー旅行記』を書いた時点でのスウィフトは、あくまで「正常」であるという立場を貫く。
 『ガリヴァー旅行記』をふつうに読むと、スカトロジーや猥褻描写が目立つが、これは、同時代のイギリスの小説その他の風俗を見れば、むしろおとなしい方であることがわかる。18世紀前半は、近代小説の黎明期だが、文学史に残っていないものとして、女性作家による露骨なポルノグラフィが大量にあった、など、驚くような事実を教えてくれる。最近、何を読んでも、自分は何も知らないのだな、という謙虚な気持ちにさせられる。知ったかぶりをしていただけの人生だったという後悔がまず先に立つが、いくらでも新しいことを知る楽しみがあるというのは喜びでもある。
 英語小説の「書き出し」の変遷を見比べて、ディケンズの天才性を示すところも面白い。『ガリヴァー旅行記』一作でイギリスは性に合わないと決めつけたばかりだが、ディケンズを読みたくてたまらなくなった。
 当時の宮廷や政治家への風刺を含む「寓話」であることは、何も知らずに読んでも察せられるわけだが、やはりその具体的な歴史的事実を確認すると、漠然と「スウィフトの厭世観」と感じられるものが、いちいち根拠のある人間的な怒りに還元される。この「解毒作用」は大きい。
 やはり、古典は好き勝手に読めるものではなく、然るべき学者のちゃんとした解説をあわせて読まなくてはいけない、と痛感させられた体験だった。

 『ガリヴァー旅行記』を読んだのは、花田清輝『復興期の精神』に取り上げられた一冊として、ずっと気にかかっていたからである。
 『復興期の精神』は、大学に入ってから読んだ本として、俺としては、最も重要な本だと思っていたのだが、さまざまな古典を題材にしたエッセイなので、これだけではわからないところが多い。
 そのスウィフトを論じた一章「極大・極小」を読み返す。ここで花田は、スウィフトから、極小と極大のふたつのあいだにあって、「動的な均衡」「力学的な調和」を絶えず追及する精神の運動を見出している。フウイヌム国の描写から単純にスウィフトの「絶望」だけを読み取って落ち込むのは、やはりあまりに単純素朴なポンコツ読者というものだった。花田は別段、当時のイギリス事情に通じていたわけではあるまいが、『ガリヴァー旅行記』の相対主義を「結末」として真正面から受け入れるのではなく、そこから運動する精神のエネルギーを見事に汲み出してみせる。

 

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