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犬が星見た(9/18の日記)

 土曜日。

 武田百合子ロシア旅行記『犬が星見た』(中公文庫)を読む。1969年、武田泰淳、竹内好との三人旅。彼らの亡くなった後、当時のメモをもとに書かれたのがこの旅行記だが、描写が驚くほど詳細なので、自分も旅行に行ってきたような気分。
 特に、食べたものの記録を残しておくことは良いことだなと思う。
 今のウズベキスタンにあたるサマルカンドなどの町へ行ったところでは、ウズベキスタンを舞台にした映画『旅のおわり、世界のはじまり』を思い出した。この映画が好きで、公開されたとき、3回も見に行ってしまった。
 解説の色川武大ではないが「この本にはページごとに、すごいところがある」と言いたくなるのだが、今日は、好きだった箇所を二箇所だけ引用する。

 唐草模様の鉄柵で囲まれた、こじんまりとしたチェホフの墓をみつけた。三つ並んだ碑のうち、かもめがとんでいる印のついている墓石は夫人のだろうか。
「門前に花屋があったなあ。花でも買ってくりゃよかったなあ」竹内さんはしきりに残念がる。手提の中にあった水色の折鶴を、柵の中へは入れないから柵越しに投げる。丁度うまい具合に、墓石の前のこんもりと盛り上って陽に光っている芝草の上にのった。イヒヒ。何だか、体がよじくれたように羞ずかしくなる。紙の鶴は、ほんとは好きじゃない。誰かが私にくれても嬉しくないだろう。ことに千羽鶴なんかもらいたくない。それだのに、ロシアにきてから、私は紙の鶴を人にやったり、墓にまで供えている。

 この旅行は、ツアーガイドさんのついている、団体旅行。それで一緒になった、銭高老人という老人の描写。

 私は銭高老人を日増しに好きになってゆく。
 うしろ手を組んで、うつ向き加減に歩きながら、老人は一人呟きつづけている。
「ああーっ、おもしろ。ああーっ、おもしろ」
 呟きのようにも悲鳴のようにも聞える。私はあたりをみまわす。おかしなことはどこにも起こっている気配はない。老人の頭や胸の中で湧き起こってきているのは、どんな面白いことなのだろうか。それとも面白がるふりをして、お経のようにわが身をあやしているのかもしれない。八十歳の肉体には、すべては彼方の夢のまた夢で、ほんとはどんなことも、ちっとも面白くなんかないのかもしれない。うんと年とった人は、夜眠るとどんな夢をみるのだろうか。

 日本では大会社の社長で、周りの者が何でも世話を焼いてくれる身分だという銭高老人は、旅行中何度か、はっと正気にかえったように「わしは、ここで、何をしているんじゃろう」と呟く。そういう心の動きを、久しく外に出ていないので、忘れてしまっている。

 もう一冊、武田花『猫・陽のあたる場所』(現代書館)は写真集である。
 この本の写真は、夢の中で見た猫のいる風景のよう。ただ、ここでいう「夢の中」というのは、寝ているときに実際に見たイメージではなくて、それとは関係なしに、「夢」という言葉によって喚起されるイメージの世界のことで、それは「ノスタルジー」とも似ている。ノスタルジーもまた、実際に見た過去の記憶ではないからだ。
 この本の写真に写っているような、東京の風景が好きだ。あとがきに、うちのたまは、旗本退屈男のように立派だけど、写真にはならない。野良猫の雰囲気にはかなわない。と書いてあったが、なるほど、そうだろうなと思う。

 どこかで読んだ、武田花のエピソード。好きなので何度か書いたり人に話したりしているのだが、大岡昇平に「なにか面白い映画ないか」と聞かれて、『悪魔のいけにえ』と答えたら、大岡がちゃんと見に行って、「あんな、ひどいものを見せるな」と怒ったという話。活字でしか知らない人たちなのに、なんとなく想像して可笑しい。

 大岡昇平編『ミステリーの仕掛け』(社会思想社)。
 大岡が自ら収録作を選定したのではない気がするが、日本の作家評論家たちによる様々なミステリー関連のエッセイが収録されている。文章の質は玉石混交(ずいぶんひどい文章もある)だが、幅広い。
 まず、冒頭、大岡の序文が良い。個々の収録作には触れず、一般論を述べているのだが、

推理小説はもと伝奇小説から出ている。面白ければよく、あそびである。それ以上に進むのなら、その人は殺人とか秘密とかに、異常な嗜好を持っていると見なしてよい。
 現代生活はわれわれにもてあますひまな時間を与えている。通勤の電車の中とか、人を待つ間とか、夜寝床に入ってから眠るまで、などなど。することがなければ、ぼーっとしていればいいのだが、一方、何かしていないと不安になるという現代病があって、読書とかクイズとか、興味を集中する対象を自己の外に求める。
 犯人は誰かーはなはだ簡単明瞭に、われわれの興味を引く疑問だ。

 この、「身もふたもない」書き方がおかしくて、いつも笑ってしまう。
 収録されたエッセイで、最も勉強になったのは、再読だが、やはり大岡の「推理小説ノート」。
 ミステリーに限らず、近代の小説全般に関する大ざっぱな見取り図としてすぐれていて、数ページの文章なのに、とても勉強になる。
 最近関心をもっている「リアリズム」に特に関連する部分を、メモのつもりで、引用しておく。先日『人間臨終図巻』の書評で、「リアリズムとはレトリックのひとつである」などとさも大発見かのように書いたのが恥ずかしくなる。

 犯罪の現場描写にはリアリズムが要求される。バルザックよりはフロベールのリアリズムである。二月革命の敗北によって、己れを空しくして対象を描くことのほか、理想を持てなくなった世代のリアリズムである。
 日本でも『今昔物語』『仮名草子』の盗賊物語は、エリザベス朝の犯罪物語と同じリアリズムに基づいている。リアリズムが十八世紀以来異常事ではなく、市民的日常生活を描く道具となったのも、西欧と同じである。

 ほかに、「教養」の欠如したホームズは、ディレッタントである他の名探偵と違う、「職人」であることを指摘した小池滋の論考が秀逸。
 「わからないことを、わからないまま書けるのが、小説のとりえだとおもう」と書く田中小実昌のハードボイルド論も、いつもそうなのだが、面白かった。

 昨日から、呼吸が苦しい。肺の底まで深く吸おうとしても吸えないのが、もどかしい。肺を切り取ってしまったのはずいぶん前だから、呼吸が浅いのはずっとそうなのだが、たまたま、何かの拍子に深呼吸しようとしてしまい、それ以来、それが気にかかって苦しい気がする。
 夜中に、胸苦しい夢を見て、はね起きること二度。どんな夢だったか記録しないでおくが、この世の狭さ、生きづらさがのしかかって来るような夢だった。
 今日は天気も悪かった。

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