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久米田康治は、なぜ萌えに走ったのか?-声幽ネットワーク論より

これは、虚構存在への愛について考えた声幽ネットワーク論という小論から一部を抜き出したものです。久米田論は三節に分かれてますが、それぞれ個別に読めると思うので分割しています。

ただ、これだけでは伝わらない部分もあると思うので、興味を持たれた方は、下記のリンクより本論へどうぞ。1章から3章は理論的な話になっており難解なため、作品論の第四章だけでも読んでいただければ幸いです。

声幽ネットワーク論の世界へようこそ。

風浦可符香とはなんだったのか?



『さよなら絶望先生』は久米田康治の漫画を原作としたアニメシリーズである。久米田康治の作品の特徴は,キャラクター自体が,何らかのモチーフ(隠喩)をキャラクター化したものであるということだ。例えば主人公の糸色望は,文字通り絶望「何事にもネガティブにしかとれない男」である。他にも,日塔奈美(人並み),大浦可奈子(おおらかな子)や,音無芽留(ほとんど声に出さずメールをする少女),加賀愛(加害妄想少女)など,まさしくキャラクター=文字がキャラクター化している。

 この作品は基本的には一話完結形式のギャグ漫画に分類される。特定のワードや事柄について,時事ネタやあるあるネタ・自虐ネタ・メタネタを展開する。それらの多くはわかる人にはわかる「暗号的」な作品である。

 これは久米田の前作である『かってに改造』とほとんど構造的には同型であるが,むしろ絶望先生は,女子生徒キャラクターが増えたことで,より「萌え」要素が強まった作品と言われている。

 確かに、商業的な成功のため、オタクたちの欲望に答えるため萌えに走ったと見ることも出来る。だが、私は敢えてここの問題ついて考えてみたい。

つまり、久米田康治の作品での「萌え」要素が強まったのはなぜだろうか?という問いである。

 『絶望先生』は先程も述べたように「基本的には」ストーリーがない一話完結のギャグマンガである。だが,実は様々な伏線が散りばめられていたことが最後にわかる。

 最終巻(30巻)で,絶望先生のクラスの生徒たちは,卒業式を迎えることになる。そこで明かされるのは,実は絶望先生のクラスの生徒はすべて死人の魂の依代であり,その魂のために学園生活を送っていたということだ。つまり,彼女らは巫女のような存在であり,絶望先生の目的はその彼女らを卒業まで導き成仏させることだった。

 だが,最終の30巻になって姿を消した生徒が一人いる。それが風浦可符香である。

 最終話の1話前に風浦可符香の正体は明かされることになる。風浦可符香以外のクラスの生徒たちは,全員が一人の少女=赤城杏からなんらかの体の一部をドナー移植されていたことが示される。

 そして,実は風浦可符香とは実在しない存在であり,実はドナー移植された少女たちが,移植による記憶転移で,代わる代わる風浦可符香を演じており,それを周りの人間が認識していたのだと語られる。つまり読者も含めて共同幻想として,風浦可符香は存在していたのだ。

 さらに,体のパーツを移植された少女たちは自殺志願者であり,赤城杏が,セロトニントランスポーター遺伝子LL型と呼ばれる通称ポジティブ遺伝子の持ち主だったため,自殺志願にも関わらず,生きようとしたのではないかと暗示される。

 そして最後,絶望先生は,様々な人物に転移した赤城杏という一人の女性を愛するために,結婚と離婚を繰り返しながら臓物島とよばれる島で少女たちと暮らすという最後を迎える。

 これをアニメに置き換えて考えてみよう。赤城杏が声優だとするならば,少女たちは,絵としてのキャラクターだ言える。そして風浦可符香はそれらが合わさったものだと考えるべきだろう。だが,赤城杏=声優は,いくつものキャラクターの身体を転移していくような存在であり,わたしたちは常に結婚と離婚を繰り返しているようなものなのだ。声優は一人であるが,同時に複数であり分裂する。複数的な差異と反復、非同期的なデータベースの拡張…

 つまり,『絶望先生』という作品は,赤城杏という固有名の分解された臓器=「萌え要素」を愛し続けるという意味で非常にグロテスクだが,否定することのできない愛を論じている作品だったといえるだろう。『かってに改造』から『絶望先生』への変化として萌え要素が多くなったのは久米田康治のそうした企てがあったからなのである。

 固有名を確定記述に還元するのでもなく,固有名だけを愛するのでもない一つの愛の形。それはグロテスクかつ不気味なものだ。だがそれこそが存在しないものと存在するものを同時に愛することのできるたった一つの冴えたやり方なのだ。

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