ゼロ年代批評への祈り-てらまっとさんの「敗北を抱きしめて」を読んで思うこと

てらまっとさんの文章を読んで思うことを書いてみる。

祈りは時として呪いである

てらまっとさんの批評は、いくつもの祈りでできている。

それは、青春ヘラや負けヒロインといった概念への、あるいは、あり得たかもしれないゼロ年代批評への、あるいは自分自身への。

だが、それらの祈りは、祝いであると同時に、呪いでもある

まず断っておくが、私とてらまっとさんとの間での問題意識は共通している。私的あるいは文学的なものといった領域がどんどんと縮小していく危機感。それは多くの人にも共有されてることだろう。アジールは守られねばならない。

だが、だからこそ、私はてらまっとさんの一連の行為に疑問を覚える。件のブログにおいて、「愛することが、同時に愛の否認でもある」とてらまっとさんは書いていた。

それを踏まえて言うならば、「アジールを守ろうとする行為が、同時にアジールの破壊」でもあるのではないかと私は思う。

どういうことか。

ペシミさんが書いたてらまっとさんへのアンサーがまさしくそれを端的に表している


「青春ヘラは現状だと他者による分析が完全に可能で、その分析が果たされると死ぬ」

私は、この文章を読んだ時、以下の文章を思い出した。

オリエンタリストとは書く人間であり、東洋人(オリエンタル)とは書かれる人間である。これこそ、オリエンタリストが東洋人に対して課したいっそう暗黙裏の、いっそう強力な区別である。[中略]東洋人に割り当てられた役割は消極性であり、オリエンタリストに割り当てられた役割とは、観察したり研究したりする能力である。ロラン・バルトが述べたように、神話(と、それを永遠化するものと)は、絶え間なく自己をつくりだしうるものである。東洋人は固定化された不動のもの、調査を必要とし、自己に関する知識すら必要とする人間として提示される。いかなる弁証法も要求されず、いかなる弁証法も許されない。そこのあるのは情報源(東洋人)と知識源(オリエンタリスト)である。つまり、筆記者と、彼によって活性化される主題である。(エドワード・サイード『オリエンタリズム』312頁)

この文脈でいえば、てらまっとさんは、書く人間である。ペシミさんは、書かれる人間である。

記述すること、言説化してしまうことの政治性。それがサイードの語っていたオリエンタリズムの問題であり、私が問題としたいことでもある。

もちろん、ペシミさんのnoteをちゃんと最後まで読めば、彼がてらまっとさんに感謝していると語ることからも、それ自体が悪い事ではない。

だが、批評的に語られて=消費されてしまうことによって、かつてアジールだった青春ヘラはもう死んでしまった。だからこそ、彼は全く別の文脈から青春ヘラを語り直す必要があるのである。これが、アジールを守ろうとする行為が、同時にアジールの破壊であると私が先ほど語っていたことである。

てらまっとさんの文章は、美しい。人を惹きつける。だが、それは同時に破壊的でもあり、呪いでもあるのだ。

宇野常寛のレイプファンタジー批判とは、なんだったのか

もう一つ、てらまっとさんの文章を読んで思うことがある。

宇野常寛のレイプファンタジー批判は、文学に政治的な正しさを持ち込んだという点はある意味では正しい。

ただ、より問題なのは、文学と政治の問題よりも、文学と経済の方なのではないか。

つまり、経済というメタゲームが縮小することによって、文学と政治のゲームがお互いのフィールドを維持できなくなってしまい、衝突するようになってしまったことが、本当の問題なのだと私は思う。

だからこそ、宇野常寛は、そもそも、既存の文芸誌に対抗して、『PLANETS』を立ち上げたのだろうし、『リトル・ピープルの時代』では、グローバルな資本主義をネットワークや拡張現実によってハッキングしていくことを提案したし、『遅いインターネット』でも同じようなことを言っている。いわんや最近の『モノノメ』もである。

だから、宇野常寛は、政治的である以上に経済的な視点を持ち合わせてる批評家であるということを忘れてはいけないのだ。

だから、彼の批判はフェミニズムだけの問題ではない。例え文学という非常に閉鎖的な空間であっても、グローバルな資本主義によってそのような衝突が避けられないこと、いつまでも引きこもりでいられないことを暴露したことが宇野常寛の批評家としての可能性の中心であると私は思う。彼は、論壇に対してもそういったことに無自覚であることを批判していた。

そして、サバイブするしかない状況に自覚的だったからこそ、彼は彼のアジールを作り続けてきたのである。

宇野常寛の批評家としての可能性の中心はむしろそこにあると私は思っている。

不能性に留まるということを父として考える

てらまっとさんも参照している『ゲーム的リアリズムの誕生』の中に収録されているAIR論は、東浩紀の文章の中でも、多くの人を惹きつけてやまない文章である。私も大好きな文章だ。

ここで語られるのは、美少女ゲームの話だが、正直に言えば、私は美少女ゲームをほとんどしたことがない。それでもなおこの文章に感銘を受けた。

そして、最近、父になった今、ここで語られていたことは、オタクのキャラクターへの愛の問題だけではなく、それは、親が子どもに感じる愛にも同様のことが言えるのかもしれないと思うのだ。

だが、それは、もしかしたら、私の特殊な状況によるかもしれない。

私の妻は台湾人で、10月に台湾で出産した。私は日本で仕事があり、コロナによる移動制限により、立ち会うことはおろかまだ実際に目にしたことはない。だから常にベビーモニター越しでしか我が子を見ることができない。ひっきりなしに通知される息子が泣いたという通知を見て、何もできない無力な自分に打ちひしがれる毎日だ。

子どもの成長において、眺めるしかできないという経験を通じて、親が本当に子どもにしてあげられることはなんなんだろうかと考える。

実は、幼い頃に離婚したので、私は父のことを知らない。本当に全く知らなかった。父の顔を見たのは、昨年父が亡くなったときに写真を見たのが初めてだった。当たり前だがどこか私に似ているような感じがした。

父は私にどういう感情を持っていたのか。最後の最後まで聞くことはできなかった。聞くところによると父は私に会いたいと思っていたらしい。だが、物理的にはいつでも会える距離にいながら会うのを躊躇っていた。それは私も同じである。いつかは会えるものだと思っていた。

そんなわたしにも子どもが生まれ、会いたいが会えない境遇に置かれるというのは、なんの因果なのだろう。不思議なものだ。

今のわたしが、子どもにできることはほとんどない。ただ、そんなわたしにもたったひとつできることがある。それは、鳥型のカメラを通じて子どもと会話することだ。最近のベビーモニターはすごい。リアルタイムで会話もできるのだ。


私はたぶん子どもからは、現在のところ鳥型のカメラとしか認識されていない。

東浩紀は、AIR論においてこのように書いている。

第三部では、プレイヤーはカラスの視点を通して戻ってくる。私たちはここで二度目の挫折を経験するのだが、その経験はより厳しいものになっている。プレイヤーはカラスの視点を借りているので、シナリオ内では観鈴と晴子の関係にまったく入りこめない。システム的にも、この後日談には、プレイヤーの作品内世界への介入手段である選択肢がほとんど用意されていない。プレイヤー=カラスは、彼らの関係への介入可能性を何重にも断たれたまま、目の前で起こる悲劇を「見る」ことしかできない。裏返して言えば、もしプレイヤーがこの第三部でも往人のような人間のキャラクターとして作品内世界に入りこめていたのならば、彼女たちの苦しみも多少は和らいだことだろう。ここで無力なのは、プレイヤーが同一化した視点人物=往人ではなく、その視点人物=往人と同一化できないプレイヤーのほうなのだ。

ここでもわたしは奇妙な運命を感じてしまう。烏になったAIRの往人と、鳥のカメラでしかない自分とを重ねてしまう。そして、東浩紀はこのように言う。

私たちは、不能であるがゆえに、全能であることができる。私たちは、(リアルな)観鈴を救えないがゆえに、(ヴァーチャルな)観鈴を愛することができる。私たちは、脱社会的な存在であるがゆえに、むしろもっとも誠実に国家について考えることができる。

私は父の愛を知らない。だからこそ、子どものことを愛することができるのではないか。いや、もちろん、そんなことは誰にもわからない。だが、会えなかった分まで会えた時に精一杯の愛を伝えたいと思うのだ。

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