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池袋で天下を獲り続けている

 札幌から東京へ出てきて、もう11年。東京で一番ゆかりのある地といえば、通った大学のあった高田馬場。通ったと言っているが、実は主に通ったキャンパスは埼玉の小手指にある。そのキャンパスは小手指駅から大学のバスで20分揺られ到着する緑あふれる山間のキャンパス。イメージしていた東京のキャンパスライフとはかけ離れていて、いろんなものを東京で吸収するんだ!と意気込む政治家(日本初全ての大臣を兼任する内閣総理大臣)志望だった後藤青年にはそのキャンパスはなかなか魅力的には思えなかった。それもあってか青年は複数のサークルに入ることになる。政治サークルや環境保全サークル、イベントサークルが三つ、フットサルサークル、軽音サークルの七つ。環境保全サークルだけ小手指のキャンパスで、あとは高田馬場のキャンパスや渋谷で、とかだった。それに加えて、日本の教育改革が必要だと思い立ち、サークルのほかに教育系NPO法人やこどもへの支援ボランティアに関わったり、日本を支えていくのは農家だと思って農業支援団体に関わったりし、小手指のキャンパスにはほとんど寄り付かなくなった。もっぱら高田馬場で生息していた。そのため四年制の大学を六年かけて卒業することになる。政治家(日本初全ての大臣を兼任する内閣総理大臣)になるために様々な現場を体感しなければならないと思い、多くのことをした。しかし、得たものはインドの渡航でいろんな人がいるものだなと多様性を感じるのと同じくらいで、正直ほとんど何もなかった。本当の当事者になれなかった。結局、己の未熟さに絶望し、政治家(日本初全ての大臣を兼任する内閣総理大臣)になることを大学二年に上がるころ、やめた。天下を獲ることは夢のまた夢となる。そうして勝手に殴り書きして、勝手に破れてビリビリになった紙切れが足元に散らばる高田馬場でフォークソングを聴きながら、怠惰な大学生活を送ることになる。

 そんな大学時代、当時の恋人が池袋に住んでいた。そのため池袋にはよく行っていた。考えてみると、ゆかりある高田馬場と等しい時間を池袋で過ごしたかもしれない。池袋の西口に広がる繁華街は今でも頭の中に入っている。思い出の街でもあるが、東京主要駅ということもあり、動きが激しく都度新鮮味を感じられる街でもある。

 池袋西口の西一番街通りを突き抜けて、ホテル街の手前トキワ通りにぶつかるところに僕の溜飲を下げてくれる場所がある。「天下寿司 池袋店」。そう、寿司をつまむことで誰でも天下を獲らせてくれる、夢のような場所。そこには天下を獲れなかったが少しでも何かしらの天下を獲りたい人やこれから天下を獲るために一旦手ごろな天下を獲りに来る人、天下など興味がない傾奇者など様々な人間が訪れる。そして、退店する頃には皆すっかり天下人の顔になっている。実は僕はここで小さい天下をずっと獲り続けている。かつて高田馬場のさかえ通りにあった「天下寿司 高田馬場店」が2015年に閉店してから、少なくとも9年前からずっと。そもそも高田馬場の天下寿司は天下ではなかった。店内から風雲児が生まれる気配がなかった。だが、池袋の天下寿司には入店してすぐにわかる器量があった。

 開店から楕円形の回転寿司カウンターは埋まり、ピークタイムには並ぶ列。夕食時から夜にかけてはひっきりなしに持ち帰りの人。サラリーマンや外国人、夜職の男女、常連の老人。まさに池袋のサラダボウル。いや、ちらし寿司か。寿司も回転するが、客もまた回転する。たどたどしい日本語を話す店員に、寿司ネタジョークをかましつつ寿司握るおっちゃん。たまに本当にぎゅっと握りつぶしたようなシャリ密度の高い寿司や雌のカブトムシくらいのデカめの寿司もでてくる。なんもなんも、これくらいでいいんだ。レアメニューのあら汁250円の札が掲示されていると、すぐさま天下が目の前に現れて、その親の顔まで視認できるレベルに。様々な人が肩を寄せ合う中で、魚の油がきらめく熱いあら汁を啜って、皆と等しく相応の値段の青魚の寿司をつまむ。これでいいんだと知らねえおっちゃんが話しかけてくれるような感覚。

あら汁がファーストオーダー、わさびはたくさん


 中学校の頃、万年補欠だったサッカー友達が言っていた。おれはファン・ニステルローイなんだ。そう、別に天下はいつ獲得してもいいんだ。僕はここで小さい天下を獲り続けている。いつか獲る天下の、肩慣らしで。

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