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七海麻美に捧げる『かのかり』社会論①ー「七海麻美の悪と近代の幻想」

  オレは、麻美を近代から救済するッッッ!!!!!

 今回はシリーズで『彼女、お借りします』のヒロイン、七海麻美を全力で擁護するために、麻美ちゃんの過去を中心に考察していきます。

ヒィ!最強さいかわ七海麻美ィ!!

 七海麻美は『彼女、お借りします』(以下、かのかり)において主人公の元カノとして登場し、ヒロインの千鶴に凶悪なチャチャを入れるなどして悪役として活躍

 それが故にクズ、性悪オンナなどと言われる七海麻美ちゃん…

ひどい言われようよ!!麻美はオレが"護る"!!

 しかし、彼女の悲惨な生い立ちを整理し、彼女の「悪」の源泉を辿ると、そこには戦後の日本が抱えてきた家族や社会モデルの崩壊と、今なお社会に蔓延するメンタルヘルス的な病理、そして『かのかり』がもつ意外な批評性に行きつきます。

 批評家の江藤淳はその代表作『成熟と喪失』で近代社会における日本の母性原理社会の崩壊とその成熟を説きました。

 発表から半世紀以上経ちながらも未だに文学・社会批評界を拘束する『成熟と喪失』を誤解を恐れず要約すれば、戦後日本社会において権威を振りかざすだけの父親と、その父に従うことしかできない母、ゆえに子と依存・密着しながらも不可避に切断される母子関係とその喪失を文学批評から社会論へと昇華させたのが江藤の成熟と喪失論と言えるでしょう。

 そして江藤は、その「喪失」の空洞から湧いてくる「悪」を引き受けることが「成熟」なのだと喝破します。

 こうした江藤の喪失論を底本に麻美の過去を詳らかにしていくと、まさに麻美の思春期はこうした喪失の反復であり、故にあのような「悪」役として立ち回っていることがわかります。

 しかし、その「悪」は果たして本当に成熟の証なのでしょうか?

 つまり、私たちは社会倫理としても、近代社会における喪失から生まれ出た「悪」をどのように引き受けるべきなのか、若しくはそれは(七海麻美は)は本当に「悪」なのか、この問いには未だに議論の余地が残されていると考えます。

 そして、何より七海麻美は救済されるべきです。

 何故なら麻美ちゃんは可愛いから!!

いきなりめんどくさい話しちゃってごめんね〜

 ところが案の定、この問いに答えていくためには結構な文量が必要になってしまいました…。

 よって今回はその序章としてできる限り議論の枝葉を落とし、麻美の過去の分析に集中し、その「悪」が誕生に至るまでを確認することで次の議論への橋頭堡を築くに留めます。

 簡単に言えばなんで麻美があんなに歪んでしまったかを考察する記事となっておりますので、あまり身構えずにどうぞ!

七海麻美の過去を分析ー“悪“の胎動

 麻美ちゃんの過去はハワイアンズ編の中盤、215話でようやく明らかにされます。

 さて、第20話で「あの人」という名前でチラつかされていた婚約者の存在ですが、麻美ちゃんにはやっぱり「親同士が水面下で描く矩形図」、つまり予定された家系図を作るための婚約者がいたんですね。

 それも父親同士の会話を参照する限り、同格の家同士の既定路線的な婚約というよりは、後に麻美ちゃんもパパに痛罵するように政略結婚に近い婚約のようです。

父の息がかかった厳格な女子高に進学
麻美は徹底的な管理下で育てられていた
麻美に訪れる転期
相手は平凡な男子学生

 彼氏の太郎は名前といい、性格といい高校のレベルといい、要するにどこにでもいるようなフツーの男子高校生だったという事でしょうね。彼の「浦島」という苗字は婚約者の「白馬」という苗字と対比すると、まだ考察の余地がある気がしますが、それはまた別の機会に譲ります。

 とにかくこの太郎君との気負わない平凡な恋人関係が彼女にとってどれほど魅力的であったことかは想像に難くありません。

 しかし、後に大きな分岐点が訪れます。

 さて、ここでぼかされている「私の中の『何か』」とは、単に恋愛による抑圧された生活からの精神的自由の獲得を指すのか、それとも身体的な変化(妊娠)までをも指すのか、具体的には後者まで含むと言えるか否かについて、かのかり識者の間でも解釈が分かれるところです。

 本稿は後者(妊娠)を含むという立場です。

 その根拠として、上掲のページで「より"明瞭"になった」と回想で述べられていますが、ここでいう明瞭とは、今までの心理的な変化に加え、更に何かが起こった…つまり、麻美の変化が客観的に確認できるレベルに至ったと考えます。

 そしてその変化こそが妊娠であり、この215話の冒頭で胎児が描かれていることからも、七海麻美妊娠説は理由があるものとしてこれを採用することができると結論します。

麻美に宿った"何か"

 そう、子供として親の言うとおりに生きてきた麻美にとっての脱線行為とは、自らが親になるということだったのかも知れません。

太郎君とその子供、新しい家族という可能性に日々期待を膨らませる麻美

 しかし太郎との関係が親にバレた麻美は、父からその解消を迫られます。
 
 交際がバレた理由については、①家を抜け出すなど行動が大胆になったことにより親に嫌疑をかけられ追求された、②麻美が自ら親に相談した、この2つの可能性が疑われます。

 ②に関しては無さそうな感じもしますが、もし妊娠があった場合、母親に相談するという可能性は十分ありそうです。このページでも麻美は母と手を繋いでおり、相談を受けた母が父のもとへ連れて行った、という場面かも知れません。

麻美も白馬さんとの婚約はこの時初めて知った模様

 ここで麻美が痛罵する「己の非力さを棚に上げて」「家族まで政治利用」といった批判は、前述した江藤淳『成熟と喪失』に挙げられるような母子密着型の社会批判に通底する部分があると見えますが、この議論は後に譲ります。

暴力によって強い無力感を植え付けられる麻美

 はい、暴力入りましたね。

 麻美は今までもその環境的な圧迫からかなり精神的に傷つけられていましたが、そこに芽生えた儚い希望まで徹底的に摘み取られてしまいます。

 その後、麻美の父は太郎君に圧力をかけ、麻美と太郎は破局に至ります。 

この太郎の別れ文句は、後に麻美が和也に使うそれと全く同じであることに留意(別記事で解説)
この時点で赤ちゃんは死んでおらず、麻美の淡い期待の灯が消えたことの暗喩であることに留意

 直接描かれてはいませんが、麻美はこの後、中絶したであろうことが推測できます。
 
 尚、この事件の後も、麻美にとって赤ちゃんという存在は暗い影を落としていることが、和也たちと下田の海へ行った回で確認することができます。

 当時、この一連のテクストだけでは「和也の後ろ髪を引くためのリップサービス」としか思っていませんでしたが、麻美の中絶歴を前提とすると印象が180度変わってきます。

 ここでは和也をたぶらかすためのしたたかな笑みは鳴りをひそめ、麻美の目もどこか遠くを眺めたまま、子への憧憬が蘇ったかのような独り言として彼女の虚無感が巧みに表現されています。

 また、細かく見ていくと麻美がこの目をする時は、必ずといっていいほど215話で触れられたような過去の心的外傷が心の中で疼いてしまう瞬間であろうことが窺えます。

 サイコパス、性悪と言われる麻美ですが、彼女の言動や行動の節々にはこのように、彼女の孤独の輪郭に対する確かな手触りがあるのです。

 さて、話を215話に戻すと、麻美は太郎と赤ちゃん、そして自身の儚い夢の喪失を受け入れるために、必死に理屈で「それが普通のこと、仕方ないこと」、つまり普遍原則であるべきだと思い込むに至ります。

自己の体験を陳腐なものと合理化させ現実を受け入れようとする麻美
至る、ニヒリズムへの道

 麻美の心は自己の喪失体験を合理化し、失ったものを無価値なものであると決めつけることで辛うじて均衡を保っている…そんなギリギリの状態です。

ドンッ!この悪女感!!

 だからこそ、麻美は他人の輝かしい恋愛を許すことができない。だからこそ、麻美の抱くニヒリズム(虚無主義)は真実でなければならない。麻美が嘘とか真実という言葉にこだわる所以もここにあるのでしょう。

 ここでもう一度冒頭の問いを繰り返しましょう。

 このような「悪」が本当に「成熟」なのかと。

近代の幻想から生まれ出る“悪”

 さて、本記事は冒頭で『成熟と喪失』で論じられる家族態とは、権威を振りかざすだけの父親と、その父に従うことしかできない母、ゆえに子供に依存・密着しながらも不可避に喪失される母子関係であると述べました。

 そろそろピンと来た人もいるかもしれませんが、江藤がモデル化したこの家族ってまさに七海麻美の家族に当てはまると思いませんか?(麻美に「自分の弱さ棚に上げて!」と揶揄された権威的な父親や、その夫に抵抗できずセリフさえ与えられない母)

 そして麻美が子供を「希望の灯」としたのも、このような江藤的家族モデルから“脱線“するためであり、その時点で麻美とその子供の関係もまた母子密着でありながら、堕胎を通して切断までされているーこの時点で麻美は情けない父の子でありながら、敗北した母として二重に存在しています。

 そして麻美が引き受けた「悪」がニヒリズム(虚無主義)を主体とする破壊衝動であることは確認した通りですが、それではこの「悪」を生んだ近代とは何か。

 我が国における近代とは、一般的に明治〜昭和の終結までを指すことが多いのですが、本稿は麻美のニヒリズムに着目するためにこの定義を一度逸脱します。

 ニヒリズムとはニーチェが「神の死」、つまり宗教社会の崩壊とその次の時代を担う近代思想として提出した実存哲学ですが、これもやはり神という「母の崩壊」、その喪失によって誕生した「悪」ということができます(特に麻美のような受動的ニヒリズムについてニーチェは批判しています)。

 つまり、ニーチェの「神の死」も江藤の「成熟と喪失」も「神」や「母」といった社会神話の喪失とその後を論じるための手がかりである、という点において違いはありません。

 それでは社会神話とは何だったか、この点をより明晰にするならば、それは共同体における大きな物語であると言えるでしょう。

 そのような生きていくための規律、大きな物語の傘に庇護されなくなった我々は、どう生きていけばいいのか、その手がかりになる最も卑近な社会単位が「家族」であることは疑いようもありません。

 事実、戦後の我が国において、維新以来の第二の近代化の波が押し寄せる中でその成就条件として標榜されたのが「近代家族」の構築及び「個人主義」の実践でした。

 しかし、そのスローガンは経済的には一定の成功を収めるものの、社会的にはより大きな分断、もしくは細断をもたらしたことは周知の事実です。

 つまり、近代もまた神たり得ぬ幻想でしかなかった。

 そうして近代という幻想のもと生み出されたさまざまな“悪”は、現代では実存哲学におけるニヒリズムという精神的態度から、臨床心理学という鋳型の中で精神病理として論じられています。

 ということで、次回は麻美が行うさまざまな「悪」役的行為を、臨床心理学の観点から分析し、七海麻美の精神世界とその行動原理に光を当てていきたいと思います。

 これが分かれば、麻美が和也と付き合った本当の理由、居もしないのに「他に好きな人ができた」とウソをついて分かれた理由、和也への現在の思いと千鶴に意地悪をする理由、つまり成熟したはずであるにも関わらず喪失を求め続ける七海麻美の「悪」とその矛盾が“より明瞭“になります。

 その時、私たちはその「悪」を「成熟」として引き受けることができるのか?他者の「成熟と喪失」を自己責任の名の下に却下し、批判していいのか?『かのかり』における麻美=悪女論をもう一度問うことになるでしょう。

 やっぱり麻美は救済されるべき。←結論

 (もしかしたら、七海麻美における「近代家族」と水原千鶴が引き受ける「個人主義」、逆説的に両者の寂寥を引き受ける木ノ下和也の「イエ文化」に対する考察を先出しするかも知れません)

 それでは、今回は七海麻美キャラクターソング「まみラップ」から歌詞を引用して終わりたいと思います!

ひらひらふわりって ふっとふっくるり
花も恥じらう ただの美少女
恋知らず ウブな素人
美しき ゆるふわ魔法使い
愛求めて 七海麻美 Fly High!


ご精読、ありがとうございました!

続。

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