想像力

はいまいど、IVTT代表の大池です。
唐突に思い立って筆を取っております。
ブランド作り系とそれに伴うトレーニング系の記事を書いていましたが、今回は本当に気まぐれに思い立って普段から常に考えている

「想像力」

について散文をば。



ここで言う「想像力」とは、普段自分が考えている想像力とは

・自分の周り以外にも事象があるのを知る
・人の事情を想像できる
・自分の言動によって起こり得る事体を予測する

この3つ。
難しい言葉で表す必要は無いので、出来るだけ簡素にわかりやすく、それぞれを言語化してみる。


自分の周り以外にも事象があるのを知る

人が想像や予測できることは自分の人生で見聞きしてきたものを土台にしている。
むしろそこからしか出てこない。
だから子供の時に親から「勉強しろ」と言われるわけで。
「この世界には”色々なものがある”ということを知る」ことは勉強の大きな意義の一つ。
積み重ねた経験と知識が想像力の源になるのは間違いない。
そして知らなかったら勉強すればいいだけ。

経験と知識があれば「あ、これはこういう反応をするな」「これをしたら、こうなる」ということが想像できる。
勉強量はほぼそのまま”想像力”になる。
「勉強したことを応用するのが想像力」ということを学校ではよく言われるが個人的には無視していい。
人間1人が出せる応用力など人類史上と比べる必要すらない。
先人の知恵を学ばないこと自体が怠慢。
経験と知識を貯めていかないと”何度火傷しても火を触る”人間になってしまう。

そして勉強を続けていくと「自分の知らないことがあまりにも多い」ことに気づく。
気づいてない人は勉強不足。

「自分の知っていることなんて、たかがしれている」

「世界には、自分の預かりしれない事象がたくさんある」

これが最初の”想像力”と考える。

人の事情を想像できる

最初の”想像力”を出せたら、これができるはず。
でもそう簡単にいかないことが「人の事情を想像できる」。
自分が知っていることなんて少ない、そして同じ人間でも全く違う考えの人がいる。
身長、体重、顔、髪質、肌の強さ、住む場所、家族構成、宗教、生活様式、習慣、言語、思考方法、経歴、今までの人生で歩いてきた道路。
一つとして同じ人間なんて物理的にありえない。
似ている人間はいるだろうけど。

違う人間なら、上記の「違う生き方」があって当然。
でもそれを受け入れることができない人は多い。

そりゃそうだ。
「人が想像や予測できることは自分の人生で見聞きしてきたものを土台にしている。むしろそこからしか出てこない」んだから。

それでも相手を見た時に「この人にはこの人の人生、事情がある。だから自分と同じではない。」
と考えられること。

これが第二の"想像力"。

個人的に一番簡単に「人は違う」ことを知る方法は海外にいくこと。
同じ人間でここまで違うか、というのを全身で感じることができる。
「『違う』ということは『違う』ということ」
を学んだのは海外に行ったから。
土足で家の中に上がらない我々日本人がいくら欧と米の人に「靴で家に上がるな」「汚いからやめたほうがいい」と言っても変わらない。
我々が「家に靴脱いで上がるのやめたほうがいいよ」と言われたらなに言ってんだこいつ、と思うのと同じように。

自分の言動によって起こり得る事体を予測する

違う事情があるのはわかった。
今度はそれに自分が対していかなくてはいかない。
言動するのは自分だからだ。
その言動によって相手がどう思うか、どう行動するか。
そしてその反応に自分がどう思うか、どう行動するか。

この結果をどこまでにするかは果てしないのでここらで止めておく。
組織人なら第四者くらいまで考えるだろう。
バタフライエフェクト的に「この言動で世界が変わってしまう」と考えるかは各人にお任せする。
世界を変えようと奮起している人は言葉の力を知っているため、世界のことまで考えているだろう。
今回はそこの話は無しで。

自他に起こり得ることまで予測できること、これが第三の"想像力"。

ここまで”想像”できたら自分の言動に迷うことは無い。
”予測”まで出来てしまっているので、周りからは「未来が見えている」とすら思われるかもしれない。
「自分以外のことを想像しすぎて、自分のことを考えられなくなりそう」なんて考えすら浮かばない。既に自分のことは”想像済み”になっている。

”想像力”が無い状態

残念ながら「”想像力”が無いな」と思ってしまう人にも必ず出会う。
だがこの場合、第一の”想像力”の源、自分の「勉強」不足をまず疑う。

人は知らないものはなんでも怖い、知ってしまえばどうってことない、ことは多い。

そして知らなかった場合の対処方としてはウィトゲンシュタインの論理的論考の言葉を引用させてもらう。
「人は語りえぬものについては,沈黙せねばならない」

そして残念ながら「”想像力”が無いな」と思ってしまう人にも、これを当てはめればいい。

”想像力”を鍛えるには

第一の”想像力”で述べたように、「勉強する」のが一番手っ取り早い。
知らないことは調べたり本を読めばいい。
そしてそれのファクトチェックを繰り返せばいい。
ネット全盛の今、とても簡単なこと。
文章を読んでもわからない場合は体を動かせばいい。
でも文章読めないのはやばいと思う。
予備校時代の好きな現代文の講師の言葉を未だにはっきり覚えてるんだけど

「英語ができないのは、ただの努力不足。
だけど日本語で書かれた文章を読んで、日本語で書かれた質問を読んで、日本語で答える現代文ができないのは、人として問題があります。」

まさに!と膝を打ったのを覚えてる。
ちなみに英語は全くできませんでした。今は喋れるからいいけど。

"想像力"の大切さ

普段考えている”想像力”について言語化してみたが、
とどのつまり「”想像力”の大切さを説きたい」ということに他ならない。

人間を罪に導く可能性のある欲望&感情、七つの大罪のこともよく考えるのだが

暴食⇔節制
色欲⇔純潔
強欲⇔慈善・寛容
憤怒⇔忍耐
怠惰⇔勤勉
嫉妬⇔感謝・人徳
傲慢⇔謙虚

七つの大罪の反対の、七つの美徳の元になるものも”想像力”だと思う。
美徳を揃える=幸せ、なのかどうかは置いておくとして

”想像力”が全ての源になる、と思っている。


散文読んでくれて感謝。

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