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人生の主役は自分なのか

今日、一回り上の先輩にご飯をご馳走になった。

「お前はアツい!お前は何をやりたいんだ?どういう生き方をしたいんだ?」と聞かれた。

「僕は全力で、仲間の全力のパフォーマンスを、近くで、仲間と、応援したいんです。それを、やり続けたいんです。」と答えた。

「お前は”自分が"パフォーマンスをする側じゃないのか?!」
ハッとした。

確かに、あんまり自分がやる、ということには関心がないのかもしれない。
仲間が、クソ無駄なことに没入して、それを全力で隣で応援していたい。
もしそれが音楽のパフォーマンスなら、五感をフルに動員できるよう、数日前からコンディションを整えてその場に向かいたい。
もしそれがスポーツのパフォーマンスなら、全身全霊で応援できるよう、喉とテンションの調子を仕上げていきたい。
俺はどうでもいいから、お前らが最高の人生だと言っているのを、近くで「それ最高じゃねえか!!もっとやろうぜ!!」と言っていたい。
んで、願わくばそれに一緒になって、感動して泣きたい。
それを、年に数回やりたい。
気付いたらおじいさんになってて、気付いたら死んでいたい。
そういう人生が良い。
ただ、それだけだなあと思った。

「俺の人生の主役は、俺じゃない。なんでもない、そこらじゅうにいる、普通の、大した取り柄もない、でも真っ直ぐで、愛すべき、誇れる仲間だ。」

恐らくこういうことなんだろう、と。

そう思うと、
なんで俺は自分の為でもないのに、こんなに動いているんだろうか、と。
それはきっと、俺がこんだけ楽しんでいれば、「お、俺も楽しむっしょ!混ぜてくれよ!」と一緒になって騒いでくれるやつが、
もしかしたら一人増えて、そいつの全力の場に一緒にいて、涙を流せるかもしれないから、なのかな、と。


人生は短い。明日死ぬかもしれない。本当に。
でも、死んでもいいやと、今はまだ思えない。
だって、仲間が「クソ無駄なこと」に没入している姿をまだ見れてないから。
それに一緒になって、「クソ無駄なこと」で涙を流せてないから。

なるほど、しっくりくる。

俺の人生の主役は、仲間たちだ。




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