![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/122797082/rectangle_large_type_2_0b60fad0408d910d73fea372a03e58c3.png?width=1200)
「その図は書いてみましたか?」と言われたことがある.「いえ,書いてないです」と答えると,「じゃあ解ろうとする努力が足りないです」と言われた.
何かを学んだり,誰かの話を聞いたりしていると,理解ができない,「解らない」という状態になることはよくある.
これって,どういうことなんだろう,という素朴な疑問がある.
解るときと解らないときでは,一体何が違うのだろうか.
そんなことを考えていたら,どうしても脳裏をよぎる本がある.
というわけでポチったのが数日前で,今日の午前中に届いた.今日は読む時間がなかったから明日以降で読む.
なので,今日の考察は養老孟司の本を読む前のもの.
どちらかといえば,岡潔の影響が強い.
「わかる」というのも,普通は「知的にわかる」という意味ですが,その基礎には,「情的にわかる」ということがあるのです.
わたしは数学の研究を長くやっていました.研究中は,あるわからない「$${x}$$」というものを,どこかにないかと捜し求めます.捜し求めるというより,そこにひたすら関心を集め続ける.そうすると,$${x}$$の内容がだんだん明らかになってくる.
ここから先は
541字
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/76458530/profile_5c62785c9de5719184e4870476607663.jpeg?fit=bounds&format=jpeg&quality=85&width=330)
「自分なら月額1,800円払う」と思う記事を投稿していきます.気の向くままゆるーくお楽しみください.
学んだこと,考えていること,たまに日記.
¥1,800 / 月
初月無料
数学で感動を.体験する喜びを.学び考える豊かさを.
サポートしていただけますと,インプットに充てる時間とお金が増えてとても助かります!