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【劇場の声】Théâtre de Belleville(津市)

他人事のように言うようなのですが、この4ヶ月間、あたりにまき散らされ、流れ去っていき、これからも降り続けるであろう情報や情感に目をこらしてみて、私はまちがっちゃいないけど正しくなかった、と自分の弱さをあらためて感じています。

今年3月に亡くなった別役実さんは、こう書いていました。

演劇は、そうじゃない時期(災害がない時期:書き手注)に人間の尊厳であるとかを表現して、間接的に次にそういう事態が起きたときに人間を強くすることができるにしても、災害自体には無力だと自覚したほうがいい。なにかできると思い込むほうが、むしろよくない。
(日本劇作家協会 会報「ト書き」55号 2015年)

私は、たいそうな人間でも、天才的な表現者でもありませんが、それでもこの禍によろめかないための種を正しく蒔けていたのか、まるで自信がありません。一方で、この3ヶ月間、全国小劇場ネットワークで定期的に重ねてきたオンラインミーティングに参加して、これからの種の蒔き方に少し希望も感じています。

第七劇場三重Belleville公演・シンデレラ1

第七劇場 Bellevilleこけら落とし公演「シンデレラ」2014年

2014年、私たち第七劇場は東京から三重県津市に拠点を移し、Théâtre de Bellevilleという拠点劇場を開設しました。第七劇場作品の製作と上演をおこなう場所であると同時に、2015年以降、春と秋にシーズンプログラムとして、ほかのカンパニーの演劇公演、ダンス、音楽、写真、レクチャー、展示、絵本の読み聞かせ、映画の上映など、いろいろなチャンネルから劇場に足を運んでいただき、楽しんでもらえるようプログラムを実施してきました。

今年2020年春も、5月のゴールデンウィークから20春シーズンプログラムを実施する予定でしたが、オーストラリアからの来日公演、音楽とダンスのパフォーマンス、レクチャーが中止となり、唯一となった上演プログラムをもって20春シーズンプログラムを終えることとなりました。

先日6月27日、私が芸術監督を務めるThéâtre de Bellevilleでは、久しぶりに観客を迎えての公演をおこない、マチネの冒頭、ひとり芝居をするカンパニーメンバーの俳優が「おかえりなさい」と客席に語りかけ、上演がはじまりました。ゆっくりと。ゆったりと。

マチネの上演は、家族向け作品の2本立て50分程度の上演で、客席には0歳児もいました。終演後、お母さんは「最後まで観られてよかったー」と言って、劇場外のウッドデッキでお昼を食べて帰られました。ソワレの上演は、一般向きのひとり芝居で、半分くらいの数に間引かれた客席はほぼ満席となりました。「観に行くよー」と言ってくれた方が来場されず、翌日お会いしたときには「家族に行くの止められてさー」と話されていました。

マスクと、消毒除菌と、検温と、間引かれた客席を除けば、今年の2月以前と同じような景色をぼんやり思い出しながら、「最後まで観られてよかったー」と「家族に行くの止められてさー」の言葉を反芻していて、冒頭に書いた場所にたどり着きました。

国内に限らず世界中で、この禍期、人間の弱さによる悲しい言動や、弱さを許せない傲慢な言動が、おびただしく広がっているように思います。それらすべてに対して演劇が無力を感じる必要はないのは理解していますが、別役さんが言うような意味で人間を強くできていたのでしょうか。

ひととひとが一緒にいることでこそ生まれるものがあることとまったく同じ構造で劇場文化が成立していることは、今回の禍でよりはっきりしました。その意味では、ひととひととの間の営みが制限されれば、劇場文化も同じように制限されるのは道理です。ただ、そのための備えを怠っていたのかもしれません。

近い将来、おそらく私たちは何かしらの方法でこの禍を乗り越えるでしょう。そしてまた遠くない将来、似たような禍は起こるでしょう。そのときのために、今回を経験した私たちは人間が弱められないように、加えて制限に耐えられるように準備しなければならないように感じます。

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BellevilleCamp19 若手演出家と俳優のための合宿企画

「劇場は誰/何のためにあるのか」という設問に、私は正解はないと考えていますし、大義名分は必要だと思いますが、通りの良い大きな声は広く浅くなったり嘘が混じりやすいとも感じています。劇場文化は、と広くとらえるのははばかられるので、私の専門に限って言うならば、演劇は万能ではないですし、すべてのひとに演劇が必要であるとは私は思いません。そして、長くて短い人生の中で、演劇が滋養になる時期もあれば、接触を避ける時期や、遠くから見守るしかできない時期もあると思います。

「英雄のいない国は不幸です。」
「いや、違う、英雄を必要とする国が不幸なんだ。」

ドイツの劇作家、演出家ベルトルト・ブレヒトは「ガリレイの生涯」の中で、地動説で有名なガリレオ・ガリレイにこう答えさせました。劇の終盤、弟子アンドレアからの非難に対する応答の言葉です。

今の私なら、おこがましくもガリレイにこう答えてほしいと思います。「誰かに英雄が必要であることに気づいてもらえない国は不幸なんだ。」

演劇が、劇場が、文化が必要だと感じているひとがいたとして、それに気づいてもらえないというのは、まちがいなく不幸です。それに気づけない社会、そしてそのひとに手を差し伸べない演劇/劇場/文化というのは、反省すべき部分は多いのでしょうし、改善するべく行動すべきなのでしょう。

今年3月以降の自粛期間中、何かできることはないかと考えて、第七劇場の舞台映像を公開したり、演劇に関する解説動画などを配信したとき、妊娠・育児中で劇場に行けないひとや、近くに劇場がないひとや、遠方で観に来にくいひとや、いくつかの地域の高校生や演劇に興味を持ちはじめたひとから、少なくない応援や感謝の言葉をいただき、私は気づけていなかったと、気づいているふりをしていたと、反省しました。すべてのひとが等しく劇場に来られない状況になって、ようやく本当に意識できたことは大きかったです。なんだか情けない話ですが。(もちろん、さまざまなディスアビリティを持つひとが舞台芸術を楽しめる工夫をしている劇場やカンパニーもあります。決して多くはないですが。)

舞台芸術は、劇場/会場でみなさんを迎えて、時間も空間も共有することに、その本質があるのはまちがいありません。ただ、それがあまりにも人間臭くて、長い歴史性を持つため、もしかしたら、私たちはその本質の強さに甘えていたのかもしれません。

この本質に盲目的に寄りかかり、何かしらの事情があって劇場に行きたくても行けないひと、たとえば物理的な距離や、経済的理由、ライフステージに関わる事情、当人ではいかんともしがたい事情、そして心身に関わるディスアビリティを持つひとを、どこかでその本質を理由にして後回しにしすぎたように感じます。もちろん、劇場やカンパニーの現場は、みなさんをお迎えすることで精一杯な状態の少ない人員や財力で対応しているのがほとんどですから、手を差し伸べたくてもその手がない、という現実はあるのは重々承知しています。

個別の限りある人生に対して、いろいろなフォルムの楽しみを創造すると同時に、人間の可能性を検証し、人間性を探求し、多岐にわたる価値を示してきた劇場文化だからこそ、この禍期に強制的に拡張された回路を使えば、劇場の扉に手が届かないひとに、これまで以上に歩み寄れるのではないかなと感じます。もちろん、しばらくは試行錯誤が続くでしょうけども、良い契機であることはまちがいありません。

幻灯会2017冬

Belleville17秋シーズンプログラム
松原豊×大岡英介 / FOUR LEAF SOUND 写真と音楽の生演奏のコラボレーション企画

何度でも別役さんの言葉を思い出しながら、弱さに対して、準備に対して、そして届かないひとに対して、私や第七劇場/Bellevilleにできることを考えて、微力であっても少しずつ行動に移していこうと思います。

これからの演劇の、そして劇場の「再開」は、きっと、次の禍によろめかないために「再開」されるでしょうし、今まで気づいているふりをされていたひとに手を差し伸べるための「再開」にもなるのでしょう。そうであってほしいと私は感じています。

その意味でいえば、この全国小劇場ネットワークに参加している各劇場は、誠実に「再開」し、真摯に種を蒔いていく劇場であるとも、私は強く信じています。

鳴海康平 (第七劇場 演出家、Théâtre de Belleville 芸術監督)

■Théâtre de Belleville
https://theatre-de-belleville.tumblr.com
■第七劇場
http://dainanagekijo.org
■第七劇場 YouTube
https://www.youtube.com/user/dainanagekijo
■第七劇場/Théâtre de Belleville 応援寄付ページ
https://dainanagekijo.tumblr.com/post/615658712793825280/donation


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