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なぜ私が靴を作るようになったのか(前編)

なぜ私が靴を作るようになったのか、産まれてから学生時代の出来事を前編、社会人以降を後編で書きました。

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私は先天性股関節脱臼で産まれてきました。産まれてから1年間、足にバンドをして過ごす経験をしています。母によると、診察の際に「40歳を過ぎたら何かしらの影響が出るかもしれない」と言われたと聞いています。

小学生の時に、先生から「歩き方に特徴がある」と言われ、いわゆるすり足で歩いていました。ただ、歩く事、走る事に全く不自由は無く、毎日通学に片道30分歩いていました。運動会でも、持久走でも表彰台に登っている程でした。

中学生ではバレーボール部に所属していました。その頃に、左足が痛いな、と思うようになりました。よく見ると、いわゆる外反母趾になる部分の母趾球が赤くなっていたり、第五趾(小指)にはタコが出来ていたのです。

整形外科に行き、レントゲンを撮りますが異常無し。湿布が処方されました。

今ならこの原因が分かります。過回内により、足部に歪みが生じていて、靴サイズも合っていなかったのです。その上、左右差がかなりある事も要因だったと思います。

左足の外反母趾は高校生の時にはさらにひどくなっていきました。高校生と言えば革のローファーですが、その当時からローファーが足に合わず、ストラップの太い、ワンストラップの黒い靴を選択して履いていました。校則には黒の靴としか書いていなかった記憶があり、服装の校則が大変厳しい学校でしたが、先生にも特に注意された事はありませんでした。あの時の自分の靴の選択を、私は褒めてあげたいです(笑)

20歳になるかならないかの頃、右の臀部から足にかけて痛みが出ていました。この痛みは鈍い痛みで、たまに出ては消える感じでしたが、筋肉痛かな、くらいの感覚で特に気に留めていませんでした。若いので、歪みも筋肉でカバー出来ていたのかもしれません。

このようにして、私の足は中学生の時には外反母趾となり、足に合わない靴を履き続けた結果、さらに酷くなっていったのです。

後編へ続く。


足に合わせた靴を作るには大変時間が掛かり、正直に申し上げまして活動の維持は常にぎりぎりの状態にあります。既製靴では合わないと言う方々の役に立てばと言う思いでずっと作り続けております。 サポート頂いたお金は活動費として使わせていただきます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。