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はじめに|岩井秀一郎『軍務局長 武藤章』

床の間の写真

 通された応接間には、「その男」に関するものが置かれていた。真っ先に目に留まったのは、床の間に置かれた額縁入りの大きな肖像写真である。がっしりとした顎を持つ大きめな頭と、意志の強さをうかがわせる眼差し。その顔立ちを際立たせるような丸眼鏡に、軍服姿で左手は軍刀の柄を握っている。

 男の名は、武藤章。元陸軍中将で、かつて軍務局長という枢要な地位にあった軍人である。二〇二三年夏、筆者は福岡県にある武藤邦弘・京子夫妻の自宅を訪れていた。邦弘氏は、武藤の兄・直也の孫、つまり武藤章の大甥にあたる。

 邦弘氏からは、「世代が違うので、武藤章についてはあまり詳しくなくて……」と聞いていた。しかし、自宅には武藤章とのつながりを証明するものがあり、世代を経て確かに刻まれてきたことを感じた。

 武藤は昭和二十三(一九四八)年十二月二十三日、いわゆる「A級戦犯」の七人のうちの一人として処刑された。七人とは、東條英機、板垣征四郎、木村兵太郎、土肥原賢二、松井石根、武藤章、広田弘毅である。広田以外はすべてが陸軍軍人で、武藤以外は陸軍大将であった。さらに言えば、武藤は七人のなかで最年少でもある。

 しかし、階級や年齢とは別に、武藤の存在感はこの七人、というより昭和の陸軍軍人のなかでも格別なものがあった。

 たとえば、広田弘毅(元首相、外相)が組閣した際も、武藤の影がちらついている。軍務局軍事課高級課員だった武藤は、新陸相に予定されていた寺内寿一を通じ、広田らが用意した組閣名簿にクレームを入れ、そのなかの幾人かの変更を迫ったとされている。

 もう一つ有名なエピソードがある。武藤が関東軍第二課長(情報課長)時代の話だ。武藤ら関東軍は、満洲で内蒙古の徳王(ドムチョクドンロプ)に協力し、彼らの独立運動に力を貸していた(内蒙工作)。しかし、これは陸軍中央の方針と異なるため、参謀本部から戦争指導課長の石原莞爾が中止勧告に来た。これに武藤は、「私たちは、石原さんが満州事変の時、やられたものを模範としてやっているものです」(今村均「満州火を噴く頃」)と切り返して石原を黙らせたという。

二つの戦争

 武藤は生涯において、二つの大きな戦争の勃発に立ち会った。一つは発生当時は「支那事変」と呼ばれた日中戦争、もう一つは大東亜戦争(太平洋戦争)である。武藤は前者において参謀本部作戦課長、後者において陸軍省軍務局長として関与した。

 この二つの局面における武藤の態度は、一見すると対照的に見える。たとえば、昭和十二(一九三七)年に盧溝橋事件が起きた際、武藤は「愉快なことが起ったね」(小林龍夫・稲葉正夫・島田俊彦編『現代史資料(12) 日中戦争(四)』)と言っている。偶発的な日中の衝突を奇貨として、中国側に強烈な一撃を加えることができる、とみたのである。

 しかしその後、対米関係が悪化し、開戦が視野に入り始めた段階では、武藤は対米交渉の打ち切りを主張する参謀本部と対立し、武力衝突を避けようとした。詳細は本文で述べるが、武藤はこの時、士官学校同期で親しい友人でもあった参謀本部第一部長(作戦部長)の田中新一と激しく対立している。

 この時期の武藤について、一つの挿話を語ってくれたのは宮田裕史氏である。宮田氏は武藤の娘(養女)千代子の長男、つまり武藤の孫にあたる。
「母は官舎に軍人が土足で上がり込んできて怖かった、という話をしていました」

 具体的な日時や、その軍人が誰かなど詳細は定かではないものの、殺気だった雰囲気が伝わってくる。武藤が兄事していた永田鉄山が、同じ軍務局長時代に白昼殺害されたことを思えば、武藤の仕事を「命がけ」と表現することもあながち大袈裟ではないだろう。

 日中戦争と太平洋戦争、この二つに臨んだ武藤の姿勢のコントラストははっきりしている。では、武藤はいかなる考えのもとに、二つの歴史の転換点に対処したのか。

「無徳」と呼ばれて

 武藤はその妥協しない振る舞いから、名前を捩って「無徳」などと言われることもあった。「傍若無人で人を食っている」「有学有識なれど有徳ならず、即ち無徳(ムトク)なり」(武藤章著、上法快男編『軍務局長 武藤章回想録』)などと評されたらしい。確かに、前述した石原莞爾への反論など、「傍若無人」の評価を裏書きしているようにも見える。

 武藤は気が強く、また自信家でもあった。自分の主張を通す際も躊躇するところはなかった。頭の回転も速く、議論にも強い。彼と敵対した人間にとっては、「傍若無人」「無徳」に見えたかもしれない。

 ただし人望がなかったかと言えば、そうではない。武藤は強気で強面の面があるいっぽう、人物を評価する目は平等で、交際範囲も広かった。信頼した人間には目をかけ、軍籍にない人々とも積極的に交わった。

 武藤が特に親しかった人物に、東條内閣で内務大臣を務めた湯沢三千男がいる。湯沢は戦後、武藤を「一介の武弁ではなく、文学青年といわれた程、よく読書し、学も識も博く高かった」(湯沢三千男『天井を蹴る』)と評している。

 同じく内務省出身で、第二次近衛文麿内閣で書記官長(現・官房長官)を務めた富田健治との関係も、武藤の人柄を表している。富田は意見の相違から武藤とよく激論を交わしたが、富田によれば、武藤は富田に対して「誠意だけは認める。意見は別」と述べ、富田も「常に気持ちよく交渉のできたことを私は喜んでいる」(川田稔編『近衛文麿と日米開戦』)と、良きライバルであったことを振り返っている。

 これらから、他人との交際について分け隔てのない性格だったことがうかがえる。「分け隔てのない」とは、相手の意見が違っても認めるところは認めることであり、逆に言えばダメならばダメとはっきり言い切ることでもある。これは、人によっては「傍若無人な」「無徳」と映ったかもしれない。

昭和史の鍵を握る男

 東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決が武藤に下されたのは、昭和二十三(一九四八)年十一月十二日のことだ。前述のように、判決は死刑。同じく死刑判決を受けた東條英機は、「君を巻添えに会わして気の毒だ。まさか君を死刑にするとは思わなかった」(武藤章『比島から巣鴨へ』)と言った。
武藤には、実子がなかった。中尉時代に、当時の陸軍次官を務めていた尾野実信中将の長女・初子と結婚したが、子供は養女の千代子だけだった。そのためもあってか、武藤は兄・直也の息子である法夫を可愛がったという。

「実子の男児がいなかったことから、たいそう可愛がられたようです。巣鴨(拘置所)にもたびたび訪ねていたと聞いております」

 法夫の長男である邦弘氏はそう語る。邦弘氏によれば、法夫は旅客機の無い時代に、住んでいた福岡から巣鴨まで訪ねていた。法夫が結婚したと聞けば、「これでお前も一人前になった」と我が子のことのように喜んだ武藤であった(京子氏談)。

 武藤の獄中日記にも、親族が面会に来る様子がたびたび記されている。十一月十二日、判決の直前にも、妻の初子と娘の千代子が面会に来ており、宣告前ではあるが、極刑を確信した武藤の話を聞いている。

 初子も千代子も泣いていた。二人とも「お父さんが残虐などまるで噓だ、弁護士さんたちも、その方は安全だと云っていたのに……」と云う。私はこれで満足である。
(武藤『比島から巣鴨へ』)

 武藤は、家族の理解を得たことを確信して「満足」したようだ。
戦前から戦中、陸軍の要職を務め、陸軍中将になった武藤は、郷土・熊本の英雄的存在だった。邦弘氏・京子氏は、武藤が帰京すると村の人々が列を作って出迎えたことを法夫から聞いている。それは戦後も変わらず、福岡からたびたび帰郷する法夫に対しても、村の人々は温かく出迎えた。ここには、武藤の兄・直也が一時期、村長を務めていたことも影響しているだろう。
日暮吉延帝京大学教授は、武藤を「日本政治史において、とらえにくい人物」と評している(武藤『比島から巣鴨へ』の「解説」)。確かに、武藤は政治に興味を持ち、近衛文麿の新体制運動にも関与した。しかし日米関係が悪化すると、その修復を行おうと努力している。強硬派との衝突も辞さず、交渉の妥結に望みをかけた。その武藤が、なぜ絞首台に消えねばならなかったのだろうか。

 昭和史の折々に存在感を発揮した武藤、その「とらえにくい」人物像をとらえ直すことができれば、日本が戦争に至る複雑怪奇な道、昭和戦前期に、新たな光を当てることができるのではないか――。そんな考えから、武藤章を調べる旅が始まった。どうか、最後までおつきあいいただきたい。

二〇二四年一月
岩井秀一郎