いとしの儚と諸々雑感。
いとしの儚、千穐楽観劇記録
ゲネプロ風景
予告映像
当日の走り書きのまま公開
後で修正するかも、、
茅野さん悪童会議旗揚げ公演。
ひとでなしの漢と人であって人でない女の物語。
鈴次郎は小さな頃から博打に生かされ、博打を生き甲斐として暮してきた。生計の立て方もプライドを維持するにも、博打は不可欠で、それでしか生きて来なかった。他の生きかたがわからない。考えたこともない様子。
そこへ賭けで獲得した儚と出逢う。
彼女は屍人でできた人形のような生き物。100日手を出されなければ、人として生きることができる。しかし、100日が経過するまでに間違いが起きれば、泡となって消えるらしい。
初めは儚を迷惑がりながら、人をいたわる気持ちもいたわりかたも分からなかった鈴次郎。しかし、暫くして、儚に対する愛情が芽生えた。それは時に父性のように、赤ん坊の世話をするように優しく、ついに賭場へもいかず儚と四六時中過ごしていた。するとある日、賭場ではいつも聞こえた鈴の音が聞こえなくなったことに気づく。
鈴次郎が人としての感情を持ったとき、感性が鈍ったのかもしれない。彼が人らしさを手に入れつつあるとき、生き甲斐は賭場ではなくなっていた。一方で儚の成長は目まぐるしく、日に日に人らしい振る舞い、言葉を身につけるようになる。鈴次郎と儚が人として完全に近づくほど2人の距離は離れていく。
それでも儚は鈴次郎と一緒に過ごしたいと願う。
残り一日となった日、事件が起こる。鈴次郎は「これが最後」と決めた博打で擦って、ついに儚を担保にして賭けで大逆転を試みた。それがきっかけで、儚も失うこととなる。
冒頭、虚な目で賽の河原に座る青鬼の彼は鬼でありながら人より人を解っているようだった。その違和感を解くように、青鬼は独白する。
何百年何千年と儚を思いながら、暗い無限地獄を生き続けないとならない。
儚だけではなく、ゾロ政や赤鬼という、人らしさを引き出してくれる存在にも出逢えていた筈なのに。恐らく、初めて他者からの愛情に触れたことを認識して、賭博の見立てが狂って「それでいい」が受け入れられなかっただけ。
何も難しいことではない。
ただそれだけなのに。
なんて残酷なのだろうか。
感想
大切な人たちに感想を述べていたなかで、受け止めてもらえて嬉しかったので別途コーナーを設ける。
"無知"、"育ち"、"出会い"人の人格形成に大きく影響したであろうこれらがうまく繋がらなくて、気持ちが通わないシーンばかりで辛かった。
鈴次郎は人生最後の賭博で大逆転して、持分を倍にすれば、二人は苦労のない生活ができたかもしれない。ただ、あのときに儚の言葉に耳を傾けていれば、あれだけの悲劇は起こらなかったかもしれない。
そもそも、出会いも博打の戦利品としての彼女。元々鈴次郎が望んだ人物ではないし、儚自体も元々願望があって人として完全な形で生きていきたいと、この世に存在させられたわけでもない。
それが、鈴次郎は人の心を儚を通して学び、儚もまた鈴次郎が大枚叩いて寺へ稽古へ預けたことで人より人らしく、ステキな女性に成長した。
いよいよ2人の気持ちが通じ合い、明るく見えそうだった未来が見えかけたところで悲劇が起こる。
稽古で作った料理の飾りを食べかけた鈴次郎に儚は「これは飾りです(プププ」と見下したような態度をとる。
このシーンは辛かった。
人としての生き方を教えたい鈴次郎の愛情により、寺へ預けたことで儚に知恵がついたものの、鈴次郎との心の溝は深まるばかり。
とうとう溝が深すぎて渡り合えなくなるギリギリまで、彼らはすれ違った。
なぜ、こうもうまくいかないのだろうか。
思うたび、涙が止まらなかった。
物言わぬモノを求める作品
「いとしの儚」の感想を人に話していたけれど、ほとんどが聞き流されたなか、熱心に聞いてくれた人と盛り上がった映画作品との比較。
「空気人形」
人形が人になるような作品だと、人形は欲望の吐口であり、持ち主は替えが利くことを悲劇に置いている。かつ、男は感情を通わせるのが疎ましく、あえて物言わぬ人形を選んでいる(無意識に選んでいた)ことが多い。
ペドゥナ(空気人形・のぞみ)がARATA(純一)の腹を抉ってみても、貴方と私の境界線は血で大きく分断される。どんなに愛しても同じ生き物になることはできない。別物だということを思い知らされる。
ーー生けるものたちは火葬場、かつてモノであった者はゴミ捨て場。亡骸は綺麗なんかじゃない。
◼️空気人形のぞみの不幸①
板尾創路(秀雄)には「お前は年取らないでいいな」と趣味でもない服を着せられ、相手をさせられるうち、人形としてどんどん型も古くなりお役御免に。
◼️空気人形のぞみの不幸②
岩松了(店長)は「さあ、モノ言えぬ人形よ、現実を黙って飲み込め」と、人形であることをいいことに乱暴に扱っていた。
空気人形のぞみが店長へ自分自身の体へ嫌悪を込めながら、身体の一部を念入りに流しで洗うシーンは、人と心通わなかったことを苦しく思いながら「次こそは(そうはならないぞ)」の感情を抱えた1人の帰り道に寂しさが似ている。
感情は、なし崩し的に、いつも邪魔をする。
「フィギュアなあなた」
主人公内山は、日常生活の重圧感で潰れたところ、運命的に辿り着いた廃屋のマネキンに命を救われる。だが、その人形に感情移入しすぎて、余計に内山の心は壊れていく。マネキンは艶めかしく、一瞬、内山と心が通い合い、そのことで内山も離れていた社会に擬態していた姿から元の姿に戻って、社会に人として存在できたように見えた。命の恩人は廃墟のただのマネキンだったのか、やがて人と区別がつかなくなっていき発狂する。
挙句の果てに「物言わぬ人形だから良かったのに、何喋ってんだよ!」と感情は爆発した。
その瞬間、内山は束の間の存在できた社会からまた隔絶されて、魔法が解けたように発狂。
ーー心なんか持たなきゃいいのに、人とは何とも珍妙な生き物だ。
叶わなかった思いは何ゴミだろうか。
何曜日に捨てられますかね。
明日無き幸福、呼笑亡き明日。
キャストの方々はもちろん、
難しくて重くて辛くて繊細で豪快な役、
鈴次郎を演じた佐藤流司さん、お疲れ様でした。
才能と耐えた体力や精神力がこわい。凄まじい。
これからも沢山ご活躍ください。