リラックマのための断章|西村紗知

マイ・スクラップブック第2回は、批評家・西村紗知さんにご寄稿いただきました。
キーホルダーやラバーストラップ、文房具にスマホカバーなど街中のいたるところで目にするファンシーキャラクター。自身も愛好家である著者がファンシーキャラクターを欲する心性を探ります。消費と欲望の<かわいい>論。
「リラックマは我々の道徳にまつわる矛盾のもとに「やってくる」――」

序文

ある日急にリラックマ(※)が欲しくなった。

コンビニのコラボアイテムを視界に入れたのか、何かSNS上でたまたま見かけたのがきっかけだったのか、まったく記憶が定かでないが、ある日、筆者は気が付いたらキデイランド吉祥寺店にいた。

もともと、それが漫画などの「作品」の登場人物だったのか、それとも最初から玩具・雑貨・文房具のメインの意匠として生み出されたものだったのか、その来歴はさまざまであるが、キデイランドでは「ファンシーキャラクター」たちは各々の暖簾を守っている。ここはさながら、八百万の神々のおわすところ。それぞれの「ファン」が友人などと連れ添い、それぞれのファンシーキャラクターの区画において、憩いのひと時を過ごしているのである。

筆者は2020年8月に、リラックマストア限定発売の「むかしのリラックマ」シリーズを買い求めにキデイランド吉祥寺店に行ったのだった。これはリラックマ誕生当時2003年のデザインを復刻したものだったのだが、いろいろ悩んだ挙句、特に用途も思いつかないがミニトートバッグなどを購入した。筆者が欲しかったのは、非売品である「ビッグインデックスクリップ」の方であった。全長約13センチ、太めのワイヤーでできたゼムクリップにラバー素材でできたリラックマがくっついている。本の栞にでもしようと思ったが、実物を見てこれでは本が傷んでしまいかねないと思い、かといって他に用途も思いつかなかったので、とりあえず玄関に飾ってある。なんだか破魔矢のよう。

なぜリラックマなのか。なぜあの日リラックマを筆者は欲したのか。

※リラックマ
サンエックス公式サイトでのプロフィールには「いきなりOLのカオルさんの家におじゃましたまま、お世話になり続けている着ぐるみのクマ。中に入っているのが誰かは不明。いそうろうなのに、特に役に立っているわけでもなく、毎日だらだらゴロゴロしている。リラックマの一番の関心事は、毎日のごはんとおやつらしい」とある。

最近のファンシーキャラクター

このところファンシーキャラクターは存在感を増しつつあるようだ。「癒し」がブームとなった90年代から依然として、ファンシーキャラクターの需要は続いている。

また別の日のこと。平日の夜に池袋のPARCOに行くことがあった。どこのフロアもすっかり推しの文化に染まっていた。筆者が事情に疎いだけなのだが、いつの間に、すっかりオタク文化との親和性が高い小売店が並ぶ商業施設となったものだ。タワーレコードには簡易ステージが設けられていて、インストアライブ終了直後だったらしく、女性グループアイドルとファンとの交流会が催されていた。

どこのアパレルブランドも、時節柄Tシャツが売れる時期だったのがその一因かもしれないが、なにかキャラクターとコラボしたアイテムが目立つところに置いてある。小売店全体がキデイランド化へと傾斜している。物よりも「キャラクター」を売っているようにも見える。

池袋PARCOのサンリオアニメストアには、アクキーやらラバストやら缶バッチが並ぶ。一番目立つところに並んでいた、イラストレーター・赤倉とのコラボ商品が目に留まる。ハローキティやマイメロディなどのキャラクターを擬人化したような女の子が、そのキャラクターと一緒にポーズをとっているイラストだ。これは、サンリオのファンをモティーフにしているのか。ファンの「あるある」を描いているのか、それともこういうファンであるべき、というキャラクターの側に即したファンの理想を表しているのか。これを買うのは、このイラストと同じような女の子なのだろうか。いろんな疑問が頭の中を駆け巡るなか、ふと、さっき見かけたグループアイドルのファンの女の子が、容姿の美しい人だったのを思い出す。そして目の前の商品に再び視線を向け、女の子が「女の子」を買うという事態を想像する。それで、ハローキティはチャーミーという猫を飼っているのであり、ハローキティ自身は猫に見えるが別に猫ではない、という設定を知ったときに似た、不思議な気分となった。そういえば、ミッキーというねずみだってプルートという犬を飼っている。

動物が動物を飼う。人間が人間を買う。思えば奇妙で残酷な気もする。でも、かわいい。ファンシーキャラクターは、ファンシーキャラクターを軸に展開される奇妙な関係を力にし、「かわいい」の一言にまとめさせることができる。消費社会のうちで生きる人々と協同するようにし、消費社会の幻想をつくりだす装置である。これは、欲望の発生源を覆い隠すことのできる装置だ。

そして、どこの小売店も閑散としているのに「ちいかわ飯店」の繁盛ぶりったら。ちいかわ、大人気である。

ファンシーキャラクターの要諦(批判的契機)

ファンシーキャラクターは、特に都市生活においては、人々の精神に近いところにいる。人々の心の拠り所であるだけでなく、人々の生き方をある方向へ促進しもするのである(それが健康か不健康か、どういった方向であるかはキャラクターと所有者によるだろう)。それは彼らが言葉を発さないからだ。だからファンシーキャラクターは、人々の精神が言葉もなしに直接欲するものとも言える。言葉を発さないものが、言葉をもつ人々をコントロールする力をもっている。

そもそも、ファンシーキャラクターとは、「自分」なのか、「愛玩具」なのか、「偶像」なのか、「神様」なのか。「赤倉×サンリオキャラクターズ」に筆者は奇妙な印象を抱いた。というのもこれが、ファンシーキャラクターをめぐるカテゴリーと境界と、それから所有者に対する志向性とでもいえるようなものが、実のところ曖昧で所有者の主観に寄るところが大きい、という現実に対しある種の批判を打ち立てているように感じられたからである。「好き」と言うとき、「かわいい」と言うとき、「尊い」と言うとき、一体何に対して、何を根拠としてそう言えるのかは、それほど簡単に説明できるものではないのだ。反対に、対象とのそうした曖昧な関係、説明できなさが、「推し」の精神的基盤をなしていると言ってもよいかもしれない。もし、キャラクターのデザインや出自に即して、あるいは受容の側面から、類型化され整理され切り捨てられてしまうものがあるとすれば、それこそがファンシーキャラクターの要諦であることだろう。

そうしてファンシーキャラクターは呼び水になる。ファンシーキャラクターへの欲求が生じるとき、そこには回帰するものがある。消費社会における諸問題が、「他なるもの」が、そして「性的なもの」が。そして呼び水となったが早いか、共同主観的に形成される「夢」のなかに霧消する。これがファンシーキャラクターのダイナミズムだ。

このことを筆者は、先日観に行った「サンエックス展」で、たれぱんだとリラックマというサンエックス躍進の立役者となったファンシーキャラクターに示唆されたものだった。

「サンエックス90周年 うちのコたちの大展覧会」を観に行く

「かわいい」と人が口にするとき、その対象と一緒にいようと決断しているのだ。だが、「他なるもの」と一緒にいたいと人が思うとき、それはどういうことだろう。

たれぱんだのイラストを改めてみるに、これがCGではなくえんぴつ画によって表現されていることの意味を、たれぱんだのキャラクター設定と合わせて考えると、興味深い。公式による説明では、「今日もよくたれています。体長は5cm~3mと個体差があり、分裂して増えるといううわさもある。」「おきているのか寝ているのかよくわからない目」「役に立っているのかよくわからない鼻」などの紹介がされている(サンエックス公式HP「たれぱんだの基礎知識」)。

たれぱんだのイラストは生物画のようである。設定もまた、観察者のディスクリプションから成り立ち、しかもこの観察者はなぜかやる気がなく、設定には「うわさ」「よくわからない」といった曖昧な記述が目立つ。所有者が現れるよりも先に、このファンシーキャラクターが立ち現れるために必須の存在である観察者が、すでにして「癒し」を得ている。だからたれぱんだの「癒し」の要因のひとつは、所有者が観察者に同化している、という点にあるのだと思われる。

対象が「「他なるもの」である」ことと、「「他なるもの」となる」こととは違う。対象が「「他なるもの」となる」とき、所有者は何らかの存在への同化作用に巻き込まれている。たれぱんだの場合はたれぱんだを発見した観察者に、リラックマの場合には急にリラックマの居候を引き受けることとなったOLのカオルさんに。このときすでに、所有者はファンシーキャラクターと一緒にいるのだ。

たれぱんだは観察者のいい加減さのおかげで「他なるもの」となる。リラックマもまた、クマの着ぐるみを着た何かであってクマではない、という要は得体の知れなさで「他なるもの」であるが、たれぱんだとは方法が異なっている。カオルさんの抱く面倒くさいという感情によって、「他なるもの」となるのだ。そしてこの面倒くさいという感情は、「家族」に根を持つ。カオルさんは、リラックマ、コリラックマ、キイロイトリという成員からなる疑似家族と共にでないと、送れない人生があるような人なのだろう。これに対し、たれぱんだを見ていると、人々にはやはり「自然」が必要なのだという気がしてくる。たれぱんだとリラックマは、消費社会の記号の海に回帰してきた、「自然」と「家族」なのである。そしてこの二つのファンシーキャラクターは、人々は「自然」と「家族」と共にでないと送れない人生がある、ということを語りかけてくるようである。

だが、「他なるもの」は本来不気味なはずだ。思うに、彼らは所有者と「同じもの」のような、怠惰な振る舞いをすることで、「他なるもの」であっても不気味ではなく、かわいいという実感をもたらすことに成功しているのだろう。

そして他にも、たれぱんだとリラックマの両者が、かわいいという落としどころにおさまるためには、「性的なもの」を抑圧する必要もあったことだろう。もちろんファンシーキャラクターはそもそも子供向けにつくられているのだから、「性的なもの」を感じさせないようにつくられているのは当然であるが、この点はファンシーキャラクターの存在要件にかかわっている。

あらゆるファンシーキャラクターの出自が謎に包まれていて、「あるところに、」とその物語が始まるのは、赤ちゃんはこうのとりが運んできたと言うのと同じように、生殖という事柄を隠しているからだ。たれぱんだは「オス・メスは素人には見分けづらく、分裂して増えるという噂もあります」(展覧会での説明)と生物学的に説明され、リラックマはパートナーの代替物であり、あまつさえパートナーの席を空白化する能力をもつのだが、その結果カオルさんあるいは彼女に相応する現実の人間は、自らの今現在の生殖不可能性を受け入れる。最近巷で聞く「ぬいぐるみペニスショック」という概念もまた、この辺の事情を共有していると見える。たれぱんだにもリラックマにも、男根があってはならない。男根の存在はあまりにも現実的すぎる。

「サンエックス展」にパネルで展示されていた、たれぱんだの、人々の煩悩をひとつひとつモティーフにした膨大なイラスト群のなかにも、色恋に関するものはぱっとは目につかない。リラックマの場合もそうだろうが、人々が投影したくないものを投影させないようにして、「他なるもの」であり続けている。それゆえ、かわいい。「かわいい」は常に諸々の抑圧の痕跡に対し向けられるのであろうし、その意味で市民社会のタブーをいわば人質にとっているのである。

「かわいい」のポリティクスに今一度思いを馳せつつ

「かわいい」とは極私的な保護膜である。ファンシーキャラクターは、自他領域の問題に真っ先にかかわる。同時にまた「かわいい」は自他領域の融解に至る遠近法である。「あなたはかわいい」と言うことはこれを言う側の主体の放棄を印付ける。だが、はじめから「かわいい」と言われてしかるべき、といった風体のものに対しては、この主体の放棄が始まることはほとんどないだろう。そうこうするうちに所有者とファンシーキャラクターとの間には純粋な空間ができあがる。

「かわいい」は「癒し」に依然として近い場所にある。「癒し」は、たれぱんだとリラックマが「自然」と「家族」の回帰であったことからも、どこか本来性を目指すところがある。「癒し」とは、商品として切り詰められた自分自身を「本当の自分」へと快復させることである。今のわたしは本来の私ではないという反省を、商品を消費することを通じて表現したものでもあるだろう。であるから、常に本来性の隘路に突き当たる。「本当の自分」など探したってしょうがないと言われるようになってから久しいが、「本当の自分」を求める誘惑を完全に断ち切ることもまた難しいのである。そして「癒し」に関して本当に問題となるのは、「自然」と「家族」の回帰などのように、本人の望まないかたちで保守化を被ってしまうことであるとか、「癒し」の外部にいる人とコミュニケーションの分断が生じることの方ではないだろうか。必要なのは、その本来性が虚偽であると暴きたてる言説ではなく、本来性の隘路へと突き進む力に歯止めをかける言説だ。それは、もうこの「癒し」という事柄から一旦目をそらさせる言説でもよいのかもしれない。


さて、最近のリラックマはかわいいがかわいくない。なんだか「ゆめかわ」過ぎる。だいたいチャイロイコグマ のことをどう受け止めていいのかまだわからない。そんなに欲しくもないミニトートバッグを購入してまで入手した、3000円以上お買い上げのお客様限定のビッグインデックスクリップを眺めながら、筆者はいま、そんなことを思っている。初期のリラックマ、口元がだらしない。

リラックマの本質は、初期のラフでカオルさんが発していた「げっ、めんどくせ」という言葉のうちにあるのであり、最近のグッズで表現上軟化されつつある、あの黒々としたすべてを吸い込んでしまうかのような瞳のうちにある。この「めんどくさい」のは、リラックマに対してのみではない。この他ならぬ私の方もまた「めんどくさい」ことを直感的に思い出すようにして、リラックマに対峙した人は反省するのである。そうして、受動的な権力関係の転覆が起こる。リラックマを愛する人間は、リラックマから一撃を食らうのである。近頃のリラックマからは、権力関係の転覆を引き起こす力が失われているように思える。

リラックマの本懐は虚無と不能だ。あれは一方的に独身女性の家に上がり込み、なんの支払いもせずにひたすらパンケーキをつくらせる存在である。そのあたりのことを度外視する人とは話ができないが、他方「それではリラックマというのは本来的に害悪なのですね」などと言う人とはもっと話が通じない。

働く素振りすら見せずパンケーキをつくるよう要求する存在がまさに「癒し」に他ならないというリアリティに、我々は今一度目を見開くべきである、と筆者は考える。

我々が道徳的規範で適当に取り繕っている、まさにそうした場にリラックマは存在する。嘘だと思うのなら、実際に街中でリラックマの姿を探してみるといい。郊外の戸建て住宅の窓辺に座るリラックマ、新入社員の仕事鞄にぶらさがるリラックマ。あの虚無の眼差しがなにを見ているか、感じるべきだ。

リラックマは何もしない。ただそれは、「それならわたしもリラックマのようになにもせずリラックスしてればいいのだわ」などという「メッセージ性」にそのまま帰結させてよいものでもない。リラックマは我々の道徳にまつわる矛盾のもとに「やってくる」。

それなのに、近頃のリラックマはめんどくさくなくなった。このことがまさに問題だ。なぜ「わたし」はめんどくさいままではいられなくなってしまったのか、という声をリラックマから聞き取ることから始めなくてはならないだろう。リラックマから声が発せられるのを感じるなら、それはやはり受け取ったものの声でもあることだろう。「かわいい」とは、自他領域の融解、主体の放棄であるから。

消費社会で誰しもが陥る可能性のある本来性の隘路から脱却する方法もまた、「かわいい」とファンシーキャラクターに心の底から声を発し、さらに、そうした自分を本当に反省することによって見つかるのかもしれない。

西村紗知(にしむら・さち)
1990年、鳥取県生まれ。批評家。
東京学芸大学教育学部芸術スポーツ文化課程音楽専攻(ピアノ)卒業。東京藝術大学大学院美術研究課芸術学専攻(美学)修了。「椎名林檎における母性の問題」(「すばる」2021年2月号)で「すばるクリティーク賞」を受賞しデビュー。そのほかの論考に「グレン・グールドに一番近い場所」(「すばる」2021年9月号)、「お笑いの批評的方法論あるいはニッポンの社長について」(「文學界」2022年1月号)、「7月のフモレスケ・ノート──「内なる声」に向かって」(「文學界」2022年9月号)などがある。