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とてつもない勇気と知性と愛に溢れた一冊だ|金田淳子——『フェミニスト、ゲームやってる』&『SF作家はこう考える』刊行記念イベントレジュメより

 2024年6月1日に書店UNITÉ(三鷹市)にて、『フェミニスト、ゲームやってる』(晶文社)、『SF作家はこう考える 創作世界の最前線をたずねて』(Kaguya Books)ダブル刊行記念として、近藤銀河さんと金田淳子さんのトークイベント「ゲームばかりしていないで勉強しなさい?――ゲームとSFから学ぶフェミニズム@三鷹UNITÉ」が開催されました。
 同イベントでは、金田淳子さんによる、『フェミニスト、ゲームやってる』、および「過去に描かれた未来 マイノリティの想像力とSFの想像力」(『SF作家はこう考える』所収)の魅力を熱く紹介するレジュメが配布されました。本記事ではそのレジュメの内容から一部抜粋し、金田さん、およびKaguya Books、書店UNITÉの許可を得て以下転載いたします(本note記事の題は晶文社編集部によるものです)。

1.ゲームをフェミニズム批評することの困難


 日本ではゲームについて、ビジュアルやシステム、ストーリーの良し悪しに関しては、早い時期から専門誌や個人のサイトなどで、頻繁に批評の対象にされてきた。しかしゲームから読み取れる思想的な良し悪し(特にジェンダーやセクシュアリティに関する思想)については、極端に批評が少ない。というよりバックラッシュのせいで批評を公にしづらい現状がある、と言わざるを得ないと思う(私ごとであり、かつ昔の話ではあるが、現存人類以外の生命体が作り出す社会が描かれる日本の複数の大作ゲームについて、その社会像、とくにジェンダー観があまりにも現存の人間社会に似ているために、異文化を描けていないという私の感想について、とあるニュースサイトで記事を書けないかと交渉した時、クオリティの問題でなく、「炎上するだろうから」と許可が下りなかったことがある)。
 そのようなトキシックなゲームコミュニティにおいて(ゲームだけに限らないが)、近藤銀河氏の『フェミニスト、ゲームやってる』は、とてつもない勇気と知性と愛(バックラッシュを恐れぬ勇気、そしてもちろんキレキレの知性、さらにゲームに最大限の可能性を見出そうとする愛)に溢れた一冊だ。

2.脱規範的なキャラクターが登場するのは喜ばしいけれども……


 本書はいわゆる大作ゲームだけでなく、多くのインディーズゲームも扱っており、どのゲームに対してもスタンスを変えることなく、フェミニズム批評、クィア批評として長所を見つけては喜んで褒め称え、しかし短所についてもしっかり指摘する。さらに「長所として紹介した部分が、実は短所なのかもしれない」という、一段階進んだ批評を随所で展開している。
 たとえば#02章では、「ヒーローシューター」ジャンルから、海外の大作ゲームのいくつかにゲイやレズビアンのキャラクターが登場することについて、「抑圧に満ちた現実社会の内部から、キャラクターが抑圧されていないかのように描かれる向こう岸の世界を見る喜び」(p.34)として評価している。
 しかし直後に近藤氏はこうも指摘する。「それは差別があることを無視した描写のおかげであり、ときにこの解放は無遠慮な差別の視線に同化してしまう」(p.34)。また日本の大作ゲーム『スプラトゥーン3』のストーリーを例に挙げつつこう言う。「差別を忘却することで、差別のない世界を楽しむことは、差別の存在を温存することと紙一重でもあるのだ」(p.36)。
 この指摘は、ごく若い頃からやおい二次創作やBLを嗜んでおり、「男が男に恋することが当たり前の、ハッピーな幻想世界」に耽溺してきた私にとっても他人事ではない。脱規範的なキャラクターや関係性が描かれているというだけではクィアな表現として成功しているとは言えず、読者のスタンスによっては差別の温存になってしまうことすらある、という当然のことを思い出させてくれた。
 またコラム「オープンワールドと都市の遊歩者の課題」(pp.244-250)では大ヒットゲーム『サイバーパンク2077』が取り上げられ、主人公が男女どちらでも選べ、さらにペニスのある女性やヴァギナのある男性を作ることもできるというキャラメイキングの自由さが紹介される。この世界は男女平等で同性愛差別もないという設定なので、主人公のジェンダーやセクシュアリティによって差別を受けることはないという。
 しかしこのゲームでは、「街には女性の性的イメージがあふれ、また性的嫌がらせを男性からされている女性の通行人もいる。(中略)前述の自由なキャラクターメイキングが単にフェテイッュの産物に思える瞬間もある」(p.247)と指摘する。 
 これもまた、『サイバーパンク2027』に限らず、しばしば見られる「男性の歴史人物を(何の説明もなく)女性キャラとして描く」「男性が担ってきた役割を(何の説明もなく)女性キャラが担う」タイプの作品について、核心をつく批評になっていると思う(このような作品群について、多くのユーザーは「フェミニズムだ」などと思っていないだろうし、自分のフェティッシュを自覚しているだろうけども)。
 本書を一読し、海外インディーズゲームが多いのだが、良質なフェミニズムゲーム、クィアゲームがこんなにもあるという事実に、私は素直に驚いた。そんな愛しいゲームたちを、愛しいからと言って全肯定するのでなく、しっかりツッコミを入れていく近藤氏の批評力には感嘆しきりだった。

3.ゲームだからこそ可能な表現

 2の論点は、私が即座にBLや女体化作品を思い出したように、ゲームではなく小説やマンガ、映画などについても援用できるものだと思う。
 しかし本書の最も優れた点であり、ゲーム愛に満ちていると思われる点は、近藤氏がゲームでこそ可能になるようなフェミニズム表現、クィア表現があると考えていることである。
 ゲームならではの可能性を指摘している部分として、近藤氏はまず第一に、#01章の『ピクミン4』について、「ゲームの良さの一つは、そうやってゲームの枠組みや目的を読み替えてプレイすることができることだと思う」(p.27)と述べる。もちろんどんな解釈もできるというわけではないが、小説や映画などのメディアと比べると、例えばゲームの中には「ゲームオーバー」という概念が存在する。「失敗することでプレイヤーはゲームに小さく対抗できる」(p.27)のだ。
 再びコラム「オープンワールドと都市の遊歩者の課題」に戻るが、そこでも近藤氏は、ゲーム内の世界観に対して違和感を持ってしまう瞬間を積極的に評価している。「オープンワールドのゲームで魅力的なのは、ゲームに入り込むときより、むしろゲームの提供する没入が破綻するときなのだと私は思う」(p.249)、「だから私はゲームの主人公たちに、意味のない奇矯な振る舞いをさせたくなる。ゲームのもつ意図から解放された気分になれて、少しだけホッとする一瞬なのだ」(p.250)。
 このような遊び方の自由度や、失敗のポジティブな意義だけでなく、近藤氏はいくつかのゲームについて、「クィア・タイム」という概念を用いて論じる。これがゲームならではの第二の可能性だ。
 「クィア・タイム」とはジャック・ハルバースタムの提唱した概念で、クィアな人間が生きる時間が社会規範に則った成熟(Adulting)とは異なる過程をたどることを指す概念だそうだ(p.170より)(残念ながら私はハルバースタムの原著を未読)。
#13章で取り上げられる 、シングル中年女性(40代)の人生を生きるアドベンチャーゲーム『レイク』では、選択肢の選び方によって「クィア・タイム」を追体験することができる(それにしても、40代女性がゲームの主人公になりうるとは、それだけで感動だ!)。
 また「クィア・タイム」と合わせて、SFで用いられてきた「アナクロニズム」という表現手法についても、近藤氏はゲームで効果を上げることができると論じている。この点については、日本SF作家クラブ編『SF作家はこう考える 創作世界の最前線をたずねて』(Kaguya Books、2024)所収の近藤氏の文「過去に描かれた未来 マイノリティの想像力とSFの想像力」と併読したい。
 クィアな人生、その時代や地域で生き方が逸脱的だとされた人々については、近年まで語られることがなかったために記憶も記録も残されていない。そのような過去を何らかの形で取り戻したいと思った時、ゲーム表現だからこそできることがある。
#19章では 『コズミック・ホイール・シスターフッド』というゲームが紹介されるが、その中で近藤氏はこう語る。「クィアなゲームはときに80年代、90年代のスタイルを取ることがある。ドット絵であったり、粗いポリゴンのようなノスタルジックなスタイルのゲームを本書ではこれまでもいくつか紹介してきた。/それは過去を実際に改変しようとするゲームたちだと私は思う。(中略)90年代にそのようなクィアなゲームがあったら。その夢想が、古いスタイルのヴィジュアルをあえて使う背景にあるように思える」(p.274)。
 また「過去に描かれた未来 マイノリティの想像力とSFの想像力」においても、近藤氏はこう論じている。「ノスタルジックなその表現は存在しなかった過去を想起させる。私はここに、クィアネスやトランスジェンダーの経験を読み取りたい。時にセクシュアル・マイノリティは自身のアイデンティティを隠すために、過去を想像に頼って語る必要に迫られる場面がある。(中略)マイノリティにとって、ありえたかもしれない過去の想像は、とても身近なものなのだ」(『SF作家はこう考える』p.142)。
 この部分で、つきなみだが私は目から鱗が落ちる思いだった。インディーズゲームでドット絵が好まれているのは「そのほうがゲーム作りが簡単だから」という理由だと思っていた(むしろ3Dモデルのほうが、汎用性のある素材がすでに売られているから、現在では簡単かもしれない)。これまで誰にもこの仮説を語らなくて命拾いしたと思う。
 「クィア・タイム」という概念じたい、本書で初めて知ったので、まだしっかり把握しきれていないと思うが、私自身、おこがましいかもしれないが「結婚せず、出産せず、BL好きで、あまりリアルの恋愛に興味なく、あまり働きもせず」という小規模な「クィア・タイム」を生きる者だ。ゲームにもこんなキャラクター(50歳)が出てきたら、実に勇気づけられそうだ、と思った。本書にはゲームの作り方も懇切に記してあるので、いつの日か私自身が作るかもしれない。その時は近藤銀河さんにぜひプレイしてもらいたい。
(おわり)

金田淳子(かねだ・じゅんこ)
1973年富山県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学(社会学)。社会学研究者。やおい・ボーイズラブ・同人誌研究家。共著に、『オトコのカラダはキモチいい』(二村ヒトシ・岡田育・金田淳子、KADOKAWA/メディアファクトリー、2015年)、『文化の社会学』(佐藤健二・吉見俊哉編著、有斐閣、2006年) 『「グラップラー刃牙」はBLではないかと1日30時間300日考えた乙女の記録ッッ』 (河出書房新社、2019年) など。ひげ・めがね・老人・武将・ヘタレ・年下攻が大好物。ジェンダー論、社会学の視点から、やおいを研究している。

◉金田淳子さんの著作
・『
『グラップラー刃牙』はBLではないかと1日30時間300日考えた乙女の記録ッッ』


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近藤銀河『フェミニスト、ゲームやってる』|近藤銀河【著者サイン入り】