動物の暮らしは持続可能的か?動物の暮らしは自由か?江戸時代は持続可能的だったか?

動物の暮らしは持続可能的である。
動物は自由である。
それなのに人類は…。

江戸時代は持続可能的である。
それなのに現代日本は…。

耳が爆発する程聞いた言説である。


しかしこれらの言説は間違っていると、僕は思う。




まず動物は持続可能的ではない。

なぜなら太陽系は太陽の枯死とともに滅び去る運命にあるからである。
この地球環境は、動物の暮らしは、太陽という有限のバッテリーで駆動している存在に過ぎないのである。
つまり持続可能的ではない。

この観点から言えば、宇宙開発を通じて地球外惑星でも尚生存しようと足掻いているホモサピエンスの方が余程に持続可能的であると言える。
仮にもし太陽系外でもホモ・サピエンスが生存できるようになれば、“近い将来”太陽が枯死して太陽系が地球もろとも滅び去ろうともホモ・サピエンスだけは生存し、「地球の遺伝子」を後世に遺していく事ができる。

ホモ・サピエンスはもしかしたら、地球にとっての精子のような存在なのかもしれない。地球外惑星は、卵子だ。
「我々ホモ・サピエンスは、太陽系という肉体が死滅した後の宇宙に(宇宙開発によって)地球の遺伝子を遺していくために、地球によって生み出された」と考えてみると、世界の見え方はひっくり返る。




また、動物は自由ではない。
これは動物ドキュメンタリーを観れば分かる。動物の一生の、なんと壮絶な事だろう。
そこに自由など欠片もない。
「人類と比べて動物はなんと自由に生きてるのだろう」「動物はのびのびと生きているのに人類は…」的な事を言ってる人の内、動物の生態に詳しい人がどれだけいるのか疑わしい。

少なくとも動物の壮絶な生態を美化し正当化するのなら、ホモ・サピエンスの生態(戦争や貧富の格差エトセトラ)もまた美化し正当化するべきだ。




また江戸時代は持続可能的ではない。
現に持続してない。江戸幕府は滅んだ。

江戸時代であるとか或いはコミューン的な集団の在り方をやたらに持ち上げてる人に欠落してるのが、他者への視点だ。
この世界には自分のみならず、他者がいる。
他者がいるという事は、他の文化があるのであり、他の国家があるという事である。

従って江戸時代がもし、世界に江戸時代しかないのであれば江戸時代は不滅だったかもしれないが(それでも結局前半に述べたように太陽が枯死すれば太陽系ごと滅び去るのであるが)、現実にこの世界には「海の向こう」があるのであり、つまり「黒船」の来航であり、黒船の来航によって江戸時代は終焉したわけである。

現実問題として、集団はその存続(持続)のために他の民族や国家の襲撃に備える必要がある。(昆虫だって群れと群れで殺し合う。)
その存続(持続)のために、集団は他の集団よりも優越している必要がある。


その結果、どう足掻いても集団は発展を強いられるわけであり、発展していけばその集団はいわゆる「持続可能的でない状態」に陥るわけである。

日本は滅びないために江戸時代を終わらせやがては現代日本に至った。これを一部の人間は持続可能的じゃないと言うのであるが、持続のためにこそ日本は現代日本に至ったのだという事は、理解しておく必要があろう。


これはいわば膨張と滅びという、生命における不可避な宿命だと思う。
滅びないためには膨張しなくてはならないが、膨張していけばいずれ弾けて消える。
それを繰り返すのが生命の営みだと思う。
昆虫にせよ動物にせよホモ・サピエンスにせよその宿命からは逃れられない。エコロジスト達には、この生命の宿命が(エコロジストの割に)理解できないらしい。




つまり、「そんなに簡単な問題じゃない」という事である。

おわり。