意地でも、確信犯でも、尖りつづけろ
自分は強いて言うなら視覚芸術の分野が専門だ。
なので音楽に関しては「好き」という域を出ないのだけども、それでも長年にわたって視覚芸術に打ち込む合間を縫っては音楽を嗜んできた。
それで改めて思うけれども、結局世の中ってのは「こう」だ。
美と腐食は隣りあわせだ。
絵にせよ、音楽にせよ、それは変わらない。
絵の歴史が味わった屈辱は、音楽の歴史もまた味わっている。
いつの世だって、美に命をかける度胸と度量のある人間は稀なのだから、どうしたって「そう」なる。
ただボサッと生きていける、凡庸で鈍感な奴らと、それを良しとしない奴らの相克。
いつだって最終的に勝利を収めるのは前者。数が圧倒的に違うのだから当然だ。
でも世界を創っていくのはいつだって後者だ。
だから後者がくじければ世界は終わる。
世界はいつだって後者を待望するし、後者にだけ福音を与える。
敢えてはっきり言うが、前者などモブでしかない。世界の脇役。
世界は後者のものであるし、後者こそが世界に愛される。
偉人などを見渡せばそれがわかる。偉人と呼ばれる人々には、前者などひとりもいないのだ。
だから尖った奴らはいつだって、たとえ維持でも確信犯でも、尖り続けていないといけない。
ボサッとした惰性的な世界に蹴りをいれつづけないといけない。
ただなんとなく生きてしまっては尖った奴らもやがてはあんまりにもくだらない世界に嫌気がさしてしまう。尖ることをやめてしまう。
だから尖るからには、残念ながら自然体で尖り続ける事は難しくて、そこには意地と確信がいる。
半ば意識的に、尖り続けていく必要がある。
それはともすれば「狙い過ぎ」と紙一重なのだけども、その紙一重と戦わないといけない。
そんな事思ってもみなかったのだけれど、気付いたら世界を変えてた。なんてのは幻想だ。
結局狙った奴だけが、世界を変えられる。
だから、意識的に、意地でも、確信犯ででも、「僕らは尖り続けていよう」とある時に決心する必要がある。