見出し画像

【今日の放言】男女平等という考え方には反対だ【最後まで読んで】

SHO+XENONです。

 先に言っておきますが、タイトルだけ読んで内容を勝手に想像しないで、ちゃんと最後まで読んで理解してください

 というわけで衝撃的で前時代的なタイトルにしてみたわけですが、恐らくは、今からする私の主張の方が、男女平等よりも遥かに進んだ考え方であると考えております。むしろ、男女平等は机上の空論であり、目指せば目指すほど社会が歪む悪しき考えだとさえ思っております。

 早速細かく説明していきます。

そもそも「平等」とは?

 まず、平等という言葉をちゃんと定義し、理解しなくてはなりません。
 Wikipedia先生に聞くところによると、

平等(びょうどう、英: equality)とは、偏りや差別が無く、みな等しいこ
と。

――――とのことです。「みな等しいこと」の部分が、特に根底的な定義と見て良いでしょう。

 みな等しいこと、大事です。そこに全く異論はありません。もちろん、差別が良いなんて思っていませんし、それだったら平等の方がずっと良いです。

 ただ私は一つ、常々とても気にしていることがあるんです。
 それは英訳の部分。「equality」。もちろん、日本語の英訳が必ずしもニュアンスを完璧に再現できているとは限りませんが、「equality」が平等であるのなら、やっぱり私は「平等をそんなに素晴らしいことだとは思わない」のです。

 なぜか。つまり皆「イコールだ」ということだからです。イコールというのは「同じ」ということ。「等しい」ということ。1+1=2の「=」なわけです。

 そうだとすると、実は「平等」の実現はほとんど不可能になってしまうんです。限られた条件下であったりとか、あるいは「同権・同等の権利」といった意味合いでは平等は実現しますし、その辺は平等であった方が良いです。しかし、それら一部例外的なものを除いて、完全なる平等の実現は不可能なのです。

完全なる平等が不可能である理由

 例えば、このような例題を出しますので、ちょっと考えてみてください。

【例題】ある肉体労働系の企業の求人の募集に、男性2550名、女性100名が応募した。この中から100名を採用するとして、最も男女平等の観点で理想的である採用をする場合、男女それぞれ何名ずつ採用するべきか?



 恐らくは、以下のような答えが出てくるのではないでしょうか。

回答例1. 男女50名ずつ(男女同数)

回答例2. 男性96名、女性4名(男女同率)

回答例3. 人数ではなく、実力で上位100名を選ぶ (男女同機)


 回答例1の「50名ずつ」は、現在最も男女平等と言われた時に思いつきやすい解決法だと思われます。確かに受かった人数を見れば平等です。しかし、落ちた人数を見ると全く平等ではないことが分かります。女性は50名しか落ちていませんが、男性は2500名も落ちています。比率で言っても平等とは程遠いことになります。

 回答例2の「96名・4名」は、いずれもおよそ4%を採用したことになります。比率でみれば平等です。しかし、言うまでもなく、人数の上では全く不平等であり、人権団体などが「こんなに人数差があるじゃないか!」と文句を言ってくることが想像に難くありません。それにもしかしたら、男性の97位の人が、女性の1位の人よりも優秀だったなんてこともあり得なくもないのです。その場合の彼の扱いには非常に困るのではないでしょうか。

 回答例3に至っては、人数的にも比率的にも、平等にならない可能性が高いです。実力で上位を選んだ結果全員が男性になったり、逆に全員が女性になったりする可能性だってあります。一見すると最も平等に近い考え方にも思えるのですが、結果は全く平等になりません。回答例1においても2においても平等になり得ないのだから当然と言えば当然です。

 このように突き詰めると、ある面では平等に見えても、別の面では不平等になってしまうことが多々あるのです。そうである以上、平等平等とこだわりすぎることは、何処かで別の不平等を生んでしまうことになりかねません。何度も言いますが差別やおかしな偏りがあることが正しいと言いたいのではありません。しかし、差別もなく、誰もが納得するようにと考えるのであれば、「平等」を目指すのは実はとてつもなくリスキーなのです。

 そしてそもそも、男性と女性は最初から不平等です肉体的にも不平等ですし、そもそも生物学的に同じに作られていないのです。多くの場合は男性の方が背が高く、筋肉質でチカラがあります。しかし女性でなければ子供は産めませんし、母乳をあげることもできません。長い長い社会的進化の過程において、男性は目的解決を重視した考え方を得意とするようですが、女性は共感力に優れているそうです。そういった違いを全て忘れて「同じ」とするには無理があります

平等以外の考え方を目指すなら

 「平等」という言葉の意味を、私はしばしばこう喩えます。

小学校1年生の女の子も、育ち盛りの野球部の中学生も、おばあちゃんも、お相撲さんも、今日のお昼ごはんは牛丼並盛1杯です。

 平等とはこういう考え方です。小学校1年生の女の子には牛丼並盛1杯は多すぎるかも知れません。でも野球部の中学生は大盛りが食べたいでしょうし、お相撲さんはそれこそメガ盛りを食べたいでしょう。おばあちゃんは牛丼よりも里芋の煮っころがしが食べたいかも知れません。でも、これが平等なんです。これのどころが素晴らしいのでしょう?

 しかし、何度も何度も繰り返して言いますが、平等という考え方は、差別よりも何億倍も何兆倍も素晴らしい考え方です。平等をやめるにしても、差別に戻るのは何の意味もありません。より考え方を進化させるべきです。ならどう考えれば良いでしょうか。


平等より重視すべき考え方

 私が提案するのは、「公平」を求めることです。
 公平とは、英語では「impartiality」あるいは「equity」、「even」であり、「偏りなく、かつ不満が出ない」状態を指します。

 Wikipedia先生に素晴らしい例が載っていたので引用します。

「公に平等」という意味の公平であるが、実際には「平等」とは異なるものと言える。例えば、3個のリンゴを3人で分けるとき、1人1個ずつなら平等かというと、リンゴの大小や味などの要素があり、厳密には異なる。大きさについては、歳の順で年少からあるいは年長から大きいものをとっていくなどという決め方も考えられるが、味のほうは外見ではわからないので、結果が平等とは限らない。また、カステラを3等分する場合、もし金尺とノギスを使って厳密に測って3等分しようとしても、真ん中と端では異なる。そもそも、物差しがあってもふつうは目測で3等分することになる。厳密に3等分されることは期待できないので、おおよそ3等分だろうというところを切り、切らなかった人から好きなところを取っていくなどのやり方をしたり、あるいはじゃんけんで決めたりする。「私はカステラが嫌いだから2人で半分ずつにしてくれ」と1人が言う場合もあるだろう。いずれも、少なくともその場にいる3人が納得していれば、「平等よりは公平がふさわしい」場合と言える。

 要するに先の例で言えば、小学校1年生の女の子には牛丼小盛りを、育ち盛りの野球部の中学生男子には牛丼大盛りを、お相撲さんには牛丼メガ盛りを、おばあちゃんには里芋の煮っころがしを食べてもらって、皆にちゃんと満足してもらう、これが公平という考え方です。

 さらに前の「人員採用」の設問にもこれを当てはめると、必然的に回答例3が公平であることが分かると思います。人数的な偏りや比率的な偏りが出たとしても、優秀であれば男女問わず採用するというわけです。もちろん基準が明確である必要はありますが、落ちた人が不公平感を感じさえしなければ良いのです。

 「そもそも男女は最初から不平等だ」という話に対しても、公平であれば良いのです。男女がそれぞれの得意なことを活かしていけば良いのです。あとはその機会が不当に奪われさえしなければ良いのです。その自由が奪われるようであれば当然不公平ですが、男女共にそこに自由があるなら良いのです。

 結論として、男女平等は目指すべきではありません。その代わり、男女公平を目指しましょう


余談

 そしてそもそも論として、男女というくくりにこだわらず、個々が自由であればそれが良いと思うのです。例えば女性が社会に出られる機会が妨げられるべきではないと思うのですが、同時に、家庭に入りたいという人がいるならその自由もまた尊重されるべきだと思うんですよね。よく比較されるアメリカの社会ってそういう社会で、マネしても良い社会のあり方だと思っています。

 私はリベラル(自由主義者)なのですが、最近リベラルという言葉が歪められてしまって「左翼」という意味になってしまってとても悲しいSHO+XENONでした。(´・ω・`)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?